プログラムノート

シューベルト・チクルスⅦ
室内楽の夕べ

2006年10月1日
アスピラート 音楽ホール
2006年10月12日
浜離宮朝日ホール

シューベルトと室内楽

 11歳で神学校に入学した少年フランツが、作曲に熱を上げ始めたのは 13 歳の時、そして、初めて弦楽四重奏曲を作曲したのは 1812年、15 歳の時であった。翌 1813年秋までに作曲した弦楽四重奏曲は7曲にのぼる。 生涯において15 曲の弦楽四重奏曲が残されていることを考えると、この数は物凄い。これほどまでにカルテットの作曲に没頭したのは、シューベルト自身が親兄弟と家庭で楽しむためであったらしい。神学校の休暇中、自宅に帰ったシューベルトは、父親と二人の兄とともに、弦楽四重奏曲を演奏していたという。そのために、嬉々としてカルテットを作曲したのであろう。ちなみに、この家族カルテットで最年少の彼が受け持った楽器はヴィオラ。兄たちはヴァイオリンを、そしてチェロは少年フランツにヴァイオリンの手ほどきをした父親であった。
 こうして家族で音楽を楽しんでいたものの、父親にとって音楽とは所詮娯楽でしかなかったというのは、皮肉な話である。シューベルトが作曲に夢中になればなるほど、学校の成績は芳しくなくなっていく。父親にはそれが我慢ならなかったらしく、シューベルトは作曲を禁止される。しかし、幸いにして彼が作曲をやめることはなかった。
 1813年秋、声変わりとともに神学校に留まることができなくなった彼は、教員になるための師範予備科に通い始める。教員にならなければ召集される羽目に陥る彼に、他の道は残されていなかった。シューベルトにとっては新たな苦悩の始まりであったが、これを境に、彼の作品は徐々に彼独自の世界を顕にしていく。
 1814年は歌曲に名曲が生まれ始めた年であるが、その頃から弦楽四重奏曲も単に自宅で楽しむものでなく、芸術的要素の強い作品になってくる。そして、1824年以降、シューベルトはこのジャンルの頂点に到達する。いわゆる、最後の3つの弦楽四重奏曲である。(第13番 イ短調「ロザムンデ」、第14番 ニ短調「死と乙女」、第15番 ト長調)
 それに先立って、1819年、ピアノ五重奏曲「鱒」が書かれている。まさに、彼が室内楽の分野でその才能を発揮した、最初の作品である。

弦楽四重奏曲 第14番 ニ短調 D810「死と乙女」
(1824年作曲)

 1823年はシューベルトが絶望の淵に立たされた年であった。劇音楽はことごとく失敗に終わり、さらに追い討ちをかけるように忌まわしい病いに見舞われる。翌1824年、病気はようやく峠を越える。一見快復に向かったかのようにみえるシューベルトは精力的に作曲活動を続け、器楽曲に数々の名曲が生まれる。中でもひときわ目を引くのが2曲の弦楽四重奏曲である。4年来空白期間のあったこのジャンルで、熟練したシューベルトの芸術が開花する。
 2月、友人シュヴィントは次のように伝えている。“シューベル トは随分元気になり、気分も良い…そして弦楽四重奏曲とレントラーと変奏曲を作曲している。” ここでの弦楽四重奏曲とは第13番「ロザムンデ」のことであろう。いかにも健康を快復したかのようにシュヴィントは記しているが、この第13番を聴けば、彼の報告は上辺だけのことであり、シューベルトは自分が全快の望みがないことを充分承知している様子が伝わってくる。
 翌3月になると、第14番「死と乙女」が作曲される。この弦楽四重奏曲も同じく絶望の中から生まれたものである。叙情性を強調した第13番とは異なった視点から自分の運命を捉えたこの曲は、シューベルトの全作品の中で最も愛される作品の一つとなった。
 この作曲と平行して、彼の日記に驚くべき言葉が残されている。 これらはシューベルトの“詩人哲学者”としての側面を伝えてくれると同時に、彼の作品への手がかりも示唆してくれている。

3月25日
 “苦痛は理性を鋭敏にし、心を強くする。それに反して、喜びは理性などほとんど気にかけず、心を虚弱にするか、 軽薄な人間にするだけである。
 僕は心底、あの一方的なものの見方というものを嫌っている。それは、自分たちのやっていることが最高で、それ以外のことは取るに足らないことだと、多くの惨めな人間に思い込ませようとする、あの一方的な物の見方だ。
 ひとつの美がすべての人間にその全生涯を通じて感動を与えるというのは真実である。しかし、この感動の余光は他のすべてのものをも明るく照らし出すものでなければならない。”

3月27日
 “誰も他人の苦しみを理解することはできないし、誰も他人の喜びを理解することもできない! 人はいつも一緒に歩いていると思っているが、いつもただ並んで歩いているだけだ。それに気づくというのは何という苦しみで あろうか!
 僕の作品は音楽への理解と僕の苦しみから生まれたものだ。苦しみだけから生まれたものが世界を喜ばせることは稀のことと思われる。”

3月28日
 “最高の感動と全く取るに足らないものとの間に大差なし、それと同じく、最も深い知恵とどうにもならない無知との間にも大差なし。
 人は信じることによってこの世に第一歩を踏み出す。信仰は理解や知識よりもはるか前から人間に備わっている。何かを理解しようと思ったら、僕はまず何かを信じなければならない。信仰はより高い基盤だ。その上に、ひ弱な悟性が最初の証を立てる矢を放つのだ。
 悟性は分析された信仰以外の何ものでもない。” etc.

 この第14番につけられた「死と乙女」という題は、第2楽章に彼の作曲したリート「死と乙女」のメロディーをテーマにした変奏曲がおかれているために名づけられたものであるが、第2楽章に限らず、全4楽章を通じて、「死」のイメージが濃いことは否定できない。この頃、シューベルトがまるで「死」と同居するような思いでいたことを、彼の手紙が語っている。

“一言で言うならば、僕は自分がこの世で最も不幸で、最も惨めな人間だと思っている。考えてもごらん、健康は二度と快復しそうにないし、絶望のあまり、ことを良くするどころか悪くしてしまう人間を。 輝かしい希望も無に帰してしまい、愛と友情の幸せが苦痛以上のものとならず、美への感動も消えうせようとしている人間を。 こういう人間を惨めで不幸な人間だと思わないか?
― “私の安らぎは消え去ってしまった、私の心は重い、私は安らぎを二度と、決してもう二度と見つけることはない”と、僕は今、毎日歌うことができるのだ。毎晩、床に就くとき、もう二度と目が覚めないことを願う、そして、毎朝昨日の苦悩を告げられるのだ。こうして僕は毎日を喜びも友達もなく過ごしている……” (3月31日付けの手紙より)

第1楽章 アレグロ ニ短調

 ソナタ形式。冒頭の「運命」のリズムからして、ベートーヴェン的な要素が窺えるが、それのみならず、ベートーヴェンの後期の作品に似たモティーフがたびたび耳に響く。苦悩に苛まれるシューベルトは、泥沼から這い出す道をベートーヴェンに求めたのかもしれない。
 展開部もベートーヴェン的な展開を見せ、緊張感は益々高まっていく。 再現部では第2主題が長調で現れる。調性的コントラストが必要だったのであろう。再現部の冒頭で削除された第1主題の一部が、コーダで速度を上げて現れる。彼の高揚している様が窺えるが、やがて、ピアニッシモの上に消えていく。

第2楽章 アンダンテ・コン・モート ト短調

 歌曲「死と乙女」による主題と変奏曲。もともと歌曲「死と乙女」はニ短調で書かれていた。第14番の弦楽四重奏曲も同じニ短調で書かれているが、この楽章ではト短調が用いられ ている。また、24小節の主題のうち、第9~16小節は歌曲にはない。シューベルトがこの主題にダイナミックな8小節を付け加えたのも、大変興味深い。
 「死」というテーマは、常にシューベルトにつきまとっていた。この作品において、彼は「死と乙女」のテキストから更に進んで、「死」についての自分の思いを展開することができたのであろう。

第3楽章 スケルツォ アレグロ・モルト ニ短調

 第2楽章の終わりの天国的な安らぎを打ち消すように現れる力強いスケルツォ。 シンコペーションとアクセントが、まるで何かに抵抗するかのようである。中間部に置かれたニ長調のトリオは、それとは対照的に限りない優しさに満ちている。

第4楽章 プレスト ニ短調

 第1楽章冒頭の「運命」のリズムが散りばめられたこのタランテラ風の楽章は、まさに「死の舞踏」と呼んでもいい。絶え間ない動きが、我々を狂気の渦に巻き込んでいく。8分の6拍子で書かれた作品にピアノ・ソナタハ短調 D958の第4楽章があるが、それよりも、更に緊張度が高い。こちらはモノトーンで書かれているため、より、逃げ道のない、追い詰められた状況を強調するのである。切羽詰まった思いがこの楽章全体にみなぎっている。

ピアノ五重奏曲 イ長調 D667「鱒」
(1819年作曲)

 1819年夏、シューベルトは友人の歌手、フォーグルと上部オーストリアのシュタイアーを訪れる。これは彼が休養のためプライベートに出かけた初めての旅行であった。シューベルトは清らかな自然溢れるこの町にすっかり魅せられて、兄フェルディナンド宛ての手紙にしたためる。“シュタイアー周辺は想像を絶する美しさだ”(1819年7月13日) シュタイアーはフォーグルの故郷とあって、二人は土地の人々から温かくもてなされる。 こうして身も心も洗われたシューベルトは、元気を取り戻す。
 ここで、彼は音楽愛好家のパウムガルトナー氏から、氏の大好きな歌曲「噂」をテーマにした変奏曲付きの五重奏曲を依頼される。それも、1816年出版されたフンメルの作品に似せて書いてほしいとのことであった。 こうして、ヴァイオリン、ヴィオラ、チェロ、コントラバス、ピアノという異例の編成の五重奏曲が誕生するのである。
 依頼されたおかげで、シューベルトは、出版されるかどうかなど余計な心配をすることなく、新しい編成のピアノ五重奏曲を試みることができた。また、コントラバスが入ったおかげで、チェロが低音部としての役割を担うだけでなく、メロディーを担う楽器として登場できることも、シューベルトを喜ばせたことであろう。
 また、5楽章という異例の構成も目を引く。一般的な4楽章構成のものに、変奏曲の楽章が加わった。これも依頼による決定だったので、出版に関する不安はなかったことであろう。こうして、自作の歌曲の旋律を主題とする変奏曲が生まれることになる。このような変奏曲の挿入は、やがて、他の作品にも見られるようになるのだから、パウムガルトナー氏のアイデアは貴重なものであったといわねばなるまい。
 作品は、全体を通してシュタイアーの土地の印象や、多くの人々に囲まれて友情を深めた初めての体験などが反映されており、シューベルトの喜びに満ちた心が伝わってくる。

第1楽章 アレグロ・ヴィヴァーチェ イ長調

 ソナタ形式。この楽章からは、シュタイアーで心身ともに晴々としたシューベルトの姿が浮かび上がってくる。 第2主題がチェロで現れるが、これこそまさにコントラバスあってこその試みであろう。
 再現部が下属調のニ長調で現れる。これは、初期のシューベルトが好んで使った手法である。

第2楽章 アンダンテ ヘ長調

 3つの主題を持つ、2つの部分からなるリート形式。人懐こく、優しい第1主題と、嘆息するようなメランコリックな第2主題。この第2主題のメロディーの背後で密かに伴奏していた付点のシンコペーションのリズムが、そのまま続いて第3主題となる。
 第2部は変イ長調で始まる。 シューベルトの好んだ三度近親調への転調である。

第3楽章 スケルツォ イ長調

 弦楽器群とピアノの対話が面白い、活気溢れる楽章。中間部のトリオの部分はニ長調で穏やかにスイングする。

第4楽章 主題と変奏 アンダンティーノ―アレグレット ニ長調

 歌曲「鱒」による主題と5つの変奏曲。歌曲では変ニ長調で書かれているが、ここではニ長調が使われている。まず、弦楽四重奏曲の形で主題が提示されると、それに5つの変奏が続く。いずれもテーマに沿った古典的なものであるが、主題を奏する楽器が入れ替わり、それにさまざまなオブリガートが色彩を添えていく。 第5変奏の後半、初めて変化が起こり、そのまま最後のアレグレットに繋がっていく。事実上第6変奏になるこの部分では、歌曲がそのまま再現される。

第5楽章 アレグロ・ジュスト イ長調

 軽快で舞踏的なこの楽章は掉尾を飾るにふさわしい。1818年にハンガリーを訪れたことが影響してか、少々民族的な色彩も加味された第1主題。この主題は再三現れる。第2主題は4度上のニ長調が使われる。第2部は第1主題が5度上のホ長調で現れるため、第2主題はまたイ長調に戻ることとなる。