プログラムノート

シューベルト・チクルスⅣ
ソナタ&幻想曲の夕べ

2004年5月24日
東京文化会館小ホール

自由音楽家として ~見果てぬ夢と挫折
1818年 (21歳) ~1823年(26歳)

 シューベルトが生を受けた時代は、産業革命に伴ってヨーロッパ全体が貴族社会から市民社会に移ろうとする時代であった。こうした近代化によって当然市民の活動の場は増えることとなっ たものの、音楽家にとっては厳しい時代の始まりでもあった。
 前代の音楽家達が貴族お抱えの作曲家として生活が保護されていたのと違って、自由は確保されているものの自由音楽家には生きる糧の保証は無い。ベートーヴェンは宮廷に属さない作曲家だったが、彼は貴族からの援助を受けた特殊な存在であった。しかしそのベートーヴェンでさえウィーン会議後の境遇はかなり厳しいものであった。
 息子を音楽家として大成させようなどと露思わなかったシューベルトの父は、ひたすら彼が教員として働くことを望んだ。しかし、家族に才能を認められないというのも悲しいものである。幸い彼には理解してくれる兄がいたし、何よりも多くの友人達がいた。シューベルトを愛し、彼の作品を喜んでくれる友人たちの存在は計り知れなく大きかった。
 1818年、彼は友人ヒュッテンブレンナーの紹介で、エステルハージー候の娘の音楽教師としてハンガリーで一夏を過ごした。当初は、幸せを満喫していた彼だが、やがてウィーンが恋しくなる。ウィーンという土地への思慕に加えて友人のいない寂しさが彼を襲う。秋には意気揚々とウィーンに戻った彼だったが、父親から勘当され友人宅を転々とすることとなる。文字どおりの“さすらい人”人生の始まりだ。
 シューベルトの生活は、概ね、午前中作曲に専念し、午後は出来上がった作品をピアノで試したく友人宅を回り、夕方からはカフェに出かけていくというものだった。カフェで友人たちと話をするのが好きだった彼だが、午前中友人が訪ねてくると嬉しそうに部屋に通すものの、相手をせずにまた作曲を続けたという。友人好きなシューベルトであったが、作曲への信念は確固たるものだった。友人達の計らいで、彼の作品は徐々に世の中に紹介されていく。しかし、一般聴衆に受け入れられるまでには至らない。何しろ、彼の作品は新しすぎたのだ。ウィーンの聴衆がベートーヴェンを凌ぐ勢いでロッシーニのオペラに傾いていた時代に、シューベルトの作品が人口に膾炙するに難しかったことは想像に難くない。しかし、彼は諦めなかった。彼の創作意欲は益々増大する。彼はいつの日か成功することを夢見ている。1817年、それまであまり筆の進まなかったピアノ曲の作曲に集中するようになる。1817~18年に未完のものも含めて8曲のソナタを手がけているが、その試みを経て、1819年彼のピアノ曲として代表的なソナタ イ長調D664、1822年「さすらい人」幻想曲D760が生まれることとなる。同じく1819年にはピアノ五重奏曲「ます」、1822年には交響曲第8番「未完成」が作曲されており、この時期の成熟振りが伺える。
 興味深いのは1820~21年に作曲された作品ジャンルである。この時期には小品を除いて、器楽のための作品がほとんど残っていない。彼は劇音楽に夢中になっていたのだ。1819年末から《ジングシュピール》に加えて、《メロドラマ》や《オペラ》を手がけるようになる。しかし、それらは悉く失敗に終った。これらの作品は今でも滅多に上演されないことからしてやはり劇音楽として無理があるものと思われる。ここにオペラとリートの違いが浮き彫りにされる。特にシューベルトのリートのように、メロディー、ハーモニー、リズムすべてが微に入り細に入って複雑な心理描写するにふさわしく扱われているものが、オペラにおいても唯おびただしく連続されるならば、それは聴衆には難しいものとなるであろう。シューベルトは1823年までこの分野の作曲を続ける。どうして、これほどまでも劇音楽の分野に固執したか明らかではない。しかしいずれにせよ彼の野心は砕かれた。ここに一つの挫折があった。
 とはいうものの、本来の彼であればこのくらいの不成功で挫折することはない、もし精神的なダメージさえなかったならば。1822年末にかかったと思われる病気が1823年の年開けととも発病する。梅毒である。この病気保持者というだけでショックは大きい上に、宗教的にも罪とされるものである以上、どこに救いがあるだろう。その想いを彼は1823年5月8日、詩にしたためた。

我が祈り

聖なる不安の深い憧れが、
より美しい世界に到達せんと望んでいる。
そして暗黒の世界を
全能の愛で満たしたい。

大いなる父よ!息子に、
深い苦しみの報いとして、
今こそあなたの愛の永遠の輝きを
救済の本源として与えたまえ。

ごらん、滅び行かんと塵にまみれ、
前代未聞の苦悩の餌食となり、
我が人生は責め苦の道となり、
永遠の没落へと近づいていく。

この人生を殺し、私自身をも殺してくれ、
すべてを忘却の川レーテーに突き落とせ、
そして純潔で力強きものを、
神よ、栄えさせたまえ。

 この詩とほぼ同時期に、シューベルトは「美しい水車小屋の娘」の作曲に取り掛かったといわれている。それは11月頃まで続き、一部は秋の入院生活の中で書かれた。入院中に手がけた作品として忘れられないのが、ピアノ・ソナタ イ短調D784である。ここに描き出されているのは、地獄からの嗚咽である。この作品と先のイ長調D644を比べると、その心理状態の違いは余りにも大きい。
 ここにシューベルトの大転換期が訪れた。これ以降、「さすらい人」幻想曲にみられたようなヴィルトゥオーゾ的な作品が姿を見せることはない。彼の作品は、この後ますます内省的なものとなっていく。

ピアノ・ソナタ イ長調 D644

 19歳までに交響曲、弦楽四重奏曲を多く完成させているシューベルトが、20歳になってもピアノ・ソナタの作曲にてこずったのはいかなる理由によるものか。形式の所為なのか、楽器の所為なのか。おそらく両方の理由によるものであろう。未完に終っている作品を見ると、明らかにオーケストラのために書かれたもの、また、弦楽四重奏や歌曲としての要素の強いものが多い。
 しかし、1817~18年のシューベルトの精力的なピアノ・ソナタへのアプローチは、1819年(22歳)に作曲されたイ長調D664で開花する。歌唱的要素の強い主題モティーフでありながら、ソナタとして均整の取れた第1楽章。弦楽四重奏曲としても扱える主題でありながら、ピアノ曲として完成された第2楽章。パッセージがピアノ曲としてふさわしいながらも歌謡性を失わない第3楽章。歌謡性の強いこのソナタは最も親しまれている作品の一つである。

第1楽章 アレグロ・モデラート イ長調 ソナタ形式

 全体を支配しているのは、遥かなるものへの憧憬。第2主題として現れるダクチュルスは自然讃歌。

第2楽章 アンダンテ ニ長調 三部形式

 夕暮れの妙なる調べに包まれたロマンス。たった一つのモティーフが展開される。

第3楽章 アレグロ イ長調 ソナタ形式

 この悦ばしい世界は一体何だろう。神々しい魂の飛翔! これは戯れという意味での本来の遊びの姿なのか。人間の意図することとは全く無縁の世界に存在する戯れとは、このようなものなのかもしれない。

ピアノ・ソナタ イ短調 D784

 1823年(26歳)の作品。ここでは「我が祈り」の内容を音で聴く ことができる。

第1楽章 アレグロ・ジュスト イ短調 ソナタ形式

 カール・ウルリヒ・シュナーベル(アルトゥール・シュナーベルの子息)は、この第一主題を支配しているトロヘウスの動きが囚人の舟を漕ぐ姿を表していると言った。実に的を得た表現である。冒頭のユニゾンのテーマは、更にトリトヌスのDisが入ることによって孤独の痛みを強調する。コラール風の第二主題は遥か彼方から聴こえてくる救いの合唱だ。展開部は大変充実しており、地獄の苦しみの後、天上の鐘の音が安らぎを与える。

第2楽章 アンダンテ ヘ長調 二部形式

 この主題は、1818年作曲された歌曲「秋の夜に月に寄せて」D614の後奏に一度だけ現れるモティーフに大変よく似ている。月に語りかける哀愁を帯びたこの歌曲で、主人公は月に向かって最後の一節でこのように歌う:

おまえは去り行き、また戻ってくる
おまえはまた幾人かの微笑む姿を見るだろう
そのとき、私はも う微笑まないし、泣きもしないだろう
誰も美しいこの世で私のこ とを想いはしないだろう。

“美しいこの世”を表すこのモティーフが第2楽章の主題に使われていることは、大変興味深い。しかし、ここにはシューベルトの“美しいこの世”への憧憬をさえぎるように現れるダクチュルスの動きが挿入されており、限りなくデモーニッシュに響く。

第3楽章 アレグロ・ヴィヴァーチェ ロンド・ソナタ形式

 第一主題の旋回する三連符の動きとシンコペーションが穏やかならぬ心境を表す。そして6回にわたって響く減七の和音や、ナポリの六の和音のアルペジョで、やりどころのない思いは炸裂する。 第二主題に美しい旋律が現れるものの、安らぎを得るに至らない。ここにあるのは喘ぎ喘ぎのメロディー線、一抹の不安を残す伴奏型。展開部で初めて穏やかな三連符の動きがDes-Durで現れるが、それはまるで放心状態である。最後、この三連符はオクターヴに発展し、絶望の叫びをあげる。

グラーツ幻想曲 D605A

 この作品は、1962年に亡くなった、グラーツの大聖堂聖歌隊長ルドルフ・フォン・ヴァイス―オストボルンの遺品から発見され、1969年に出版されたものである。この楽譜が発見された箱には、多くの手稿楽譜や文書が収められていたが、これはもともとヴァイス―オストボルン家と親戚関係にあったヒュッテンブレンナーの所蔵物であった。この幻想曲の前身と思われるものに、1817年に書かれたD571嬰へ短調がある。ソナタとして書き始められたこの美しい作品は未完に終っているが、テーマはリートそのものといった曲で、決してソナタにふさわしいものではなかった。しかしこのモティーフは1818年 (21歳)の作といわれるこのグラーツ幻想曲の冒頭にハ長調の形で姿をあらわすこととなったのである。
 この幻想曲には実に様々な性格のモティーフが現れ、それらはまるでピアノによる通作歌曲といえるような繋がりをもつ。ハ長調の序奏のあと“ポロネーズ風に”と記された嬰へ長調の部分が置かれている。トリトヌスの関係にある嬰ヘ長調への転調とは、当時としては大変大胆なものと言えるであろう。ここからして、既にファンタジーの要素が強い。これはさらに嬰へ短調に転調し、踊りとは全く無関係の哀愁に満ちたモティーフが現れる。序奏が変イ長調の三拍子に変奏されて現れた後、中間部に入る。まるで“春の讃歌”と名づけたくなるような歌の部分を過ぎると、劇的な展開を繰り広げて、第三部に入る。ここでは、穏やかな美しさが透き通る月の光を思わせる。長調でありながら哀愁を帯びた歌が過ぎると、12/8拍子の16分音符のきらめく動きが現れ、幻想の世界に誘う。最後に、ハ長調で序奏と同じものが短縮されて現れ、幻想の世界は“C”の音上で遠くへ消えていく。

「さすらい人」幻想曲 D760

 1822年(25歳)の作。ソナタを模範とした4楽章で構成されているが、どの楽章にもソナタ形式は見られない。また、それぞれの楽章は切れ目なく続くよう指示されており、これはあくまでも4つの楽章をもつ幻想曲である。「さすらい人」幻想曲の名は第2楽章に由来する。これは、彼が19歳の時作曲した歌曲「さすらい人」のメロディーを主題にして書かれた変奏曲である。しかし第2楽章に限らず全曲を性格付けているのは、“さすらい人”の遍歴そのものだ。この壮大なスペクタクルをもつ幻想曲では、彼が熱中した劇音楽への試みが充分生かされたといえよう。

第1楽章 アレグロ・コン・フォーコ・マ・ノン・トロッポ ハ長調

 これは未知との遭遇を喜び、輝かしい将来を夢見る、希望に満ちた若者の旅立ち。第一主題も第二主題もダクチュルスのリズムで書かれているが、第一主題は確固たる足取りを、第二主題は神性なるものへの讃歌を表す。大きな比率を占める展開部を経て再現部へ。ここでは第一主題が穏やかならぬ展開を見せ始め、若者を絶望の淵に追い込む。

第2楽章 アダージョ 嬰ハ短調

 歌曲「さすらい人」のテーマが現れるが、そのテキストが第2楽章全体の性格を示している。

ここでは太陽も私には冷たく感じられる、
花は萎れ、人生にも疲れ果てた、
人々の語る言葉は虚しく響き、
私は何処へ行ってもよそ者だ。

 変奏形式は シューベルトの霊感を鼓舞するにお誂え向きの形式だった。そこでは彼は何の制約もなくミューズの神と交わることができたのだ。次々と現れる世にも美しいヴァリエーション。それはやがて嵐に巻き込まれ、遠くから響く雷鳴に恐れおののく。

第3楽章 プレスト 変イ長調

 これはウィンナー・ワルツ。彼が辿り着いたところは、夢心地の世界だった。時を忘れて踊る人々。最高の“遊び”のひととき。 中間部は完全に夢の中。ここの二重唱は一体誰との会話? 夢から覚めると、世の中は乱舞の渦。突然現れるナポリの和音が渦から救い出してくれる。

第4楽章 アレグロ ハ長調

 終楽章はフーガで始まる。もしかすると、シューベルトはベートーヴェンのソナタ Op.101、106、110を知っていたのかもしれない。いずれにせよ、さすらい人遍歴の最後にフーガという理性的な形式を置いたのは非常に興味深い。感情の起伏の激しい人生に翻弄された後、救いの光を投げかけてくれるのは理性だ。しかし、作品はフーガでは終らない。ベートーヴェンのソナタと同じく、最後はホモフォニーに戻って、人生を讃美する。