原田英代ピアノ・リサイタル第3回<変容>
2021年3月12日(金)
HakujuHall(ハクジュホール)
ベートーヴェン:ソナタ 第28番 作品101 と 第31番 作品110
ベートーヴェンは1812年に第7、第8交響曲を書いたあと、スランプに陥る。19世紀の初めはヨーロッパ中がナポレオン戦争で荒廃しており、その弊害はベートーヴェンの生活にも及んでいた。年金は支払われず、食糧難に喘ぐ。さらに健康状態もひどく悪化し、挙句の果てに弟子で恋人だったヨゼフィーネ・ダイム夫人との間に娘が生まれ、精神的打撃も加わった。この子には匿名の意の「アノニューム」を逆さに読んだ「ミノーナ」という名が付けられ、「名前のない子」として育てられることとなる。この状況の中で、彼は『ウエリントンの勝利』を作曲する。これはベートーヴェンの名に決してふさわしいとは言えない作品で、この作曲が自分の信念にそむいて旧体制へ加担する行為であったことに気づいたときには、彼の霊感も枯渇してしまっていた。
ベートーヴェンの作曲年代は初期、中期、後期と三つに区分されるが、ちょうど1812年末から始まる6年の苦難の時期を後期に入れず、四つに区分して捉える人々がいる。私もそれに賛同する一人であるが、中期と後期の間に位置するこの停滞期とも言える時期こそ、ベートーヴェンが後期の作品を生み出す跳躍台になった重要な期間であった。リストが三つの区分を、『青年―人間―神』と名付けたように、ベートーヴェンの作品を辿っていくと、最初は演奏の喜びや私的な告白が重きをなしていたのがやがて普遍的なものに変わっていき、極度に簡潔な形式や音型とともに永遠なる芸術に変身していったことがわかる。しかし、人間が神の領域に入るのは容易ではない。そのためには、何らかの衝撃が必要であった。ベートーヴェンに降りかかった苦難はすべて神から用意されたものだったのかもしれない。今日演奏する第28番作品101はこの苦難の時期に属する作品であり、第31番作品110はそれを抜け出した後に書かれた作品である。
ソナタ 第28番 イ長調 作品101
苦難の日々に書かれた作品としては、最も美しい作品。「詩情に富んでおり、それを描き出すことは信じられないほど難しい」とベートーヴェン自身が語ったと言われる。
ベートーヴェンのソナタとは信じがたいほどすべてが溶け合い、統一している。弟子のシントラーは、「ベートーヴェンはこのソナタのそれぞれの楽章に、次のような標題を与えることもできただろう。第1楽章“夢見心地”、第2楽章“行動への誘い”、第3楽章“夢見心地への復帰”、第4楽章“行動”」と言っている。
この作品のスケッチは1814年に始まり、完成したのは1816年であったが、その間、彼の手帳にはインド哲学からの引用文が数多く書き込まれている。
「行為の動機は行動そのものであって、決して行動の結果ではないように。報酬が行為の動機であり、それを目当てとするような人になるな...」
「運命の首根っこを摑まえてやる」と言っていたこの巨人は、この期に及んで、神の前に頭を垂れる。そして行動の結果に執着することを捨て、行動のために行動することを意図するようになる。彼が征服しなければならないのは、今は自我なのだ。
「学べ、学べ、沈黙することを」
沈黙を助けてくれたのは自然だった。彼は野や森の平和への想いで救われていく。
「森の全能なるものよ!私は森の中にいると、歓びにあふれ、幸福だ。-どの樹木もおん身を通じて語る。おお、神よ!なんたる壮麗さ!こういう森の中に、丘の高みに、やすらい、やすらい、神に仕えるやすらいがある。」
この沈潜の中で、彼の作風は徐々に変身を遂げていく。
ソナタ 第31番 変イ長調 作品110
1818年徐々に復活していったベートーヴェンは1820~1822年に最後の3つのピアノ・ソナタを書き上げる。作品110のソナタはその2曲目にあたり、1821年に作曲された。
第1楽章はこの上ない幸せに満ちた歌謡性に満ちた第一主題で始まる。これ以上簡単な伴奏音型を使ったことがかつてあっただろうか。しかもこの楽章では、ベートーヴェンの特徴である主要主題と副主題の対立、葛藤は見られず、滑らかに進んでいく。しかし徐々に幸福に陰りが見え始め、最後、まるで尻切れトンボのようにいきなり終わる。ベートーヴェンに何が起こったのであろうか...ロマン・ロランは、作曲中にベートーヴェンがヨゼフィーネの死を知ったのであろうと推測する。娘の誕生以来会うことのなかった二人。彼女の訃報にベートーヴェンは我を失ったに違いない。1821年3月31日のことであった。
間を入れずに無骨な第2楽章がヘ短調で始まる。この曲が示す性格も、ベートーヴェンは十分持ち合わせていた。中間部にはまるで肘で小突きあうような動きが出てくる。メルジャーノフはこれをブリューゲルの絵画『農民の踊り』に譬えた。この楽章は一度も確実性や安定性を持つことなく終わりを迎えるが、穏やかなヘ長調の上に終結する。しかしこの「ファ」の音はいったい何者なのか。
この「ファ」の音が誘った先は苦悩のどん底だった。第3楽章は氷地獄コキュートスに落とされたかのようなレチタティーヴォで始まる。それに続くのは、嘆きの歌。これはバッハの『ヨハネ受難曲』のアリア「すべては終わった。傷ついた魂に安らぎを」のメロディーそのものである。しかし、そこから第1楽章の主要主題から派生した確固たるフーガの旋律が浮かび上がってくる。感情で解決できず、フーガという理性の力を借りて起き上がるのだ。しかし、再度嘆きの歌がもっと重い足取りで現れる。まるで傷ついた魂は癒されることがないかのように。だが、神は見捨てなかった。再度フーガが柔らかな救いの手を差し伸べる。そうして情熱の高まりに身をゆだねるベートーヴェンは、フェニックスのごとくに蘇り、天高く昇っていく。
全楽章がこれほどまでに統一されたピアノ・ソナタは稀有と言えよう。
チャイコフスキー:組曲『四季』 作品37b
1862年にアントン・ルビンシュテインによって創立されたロシア初のペテルブルク音楽院を卒業したチャイコフスキーは、西洋音楽の理論を身につけた最初のロシア人作曲家であり音楽家であった。バラキレフ一派は彼の態度を西欧主義だと批判したが、チャイコフスキーは心底ロシアを愛した人だった。ロシア民謡を自分の作品に取り込むことも少なくなかったが、チャイコフスキーにとってもっとも大切なのは「ロシア精神」で作曲することだった。こうしてロシア的なものが普遍的な音楽理論を得て、世界に広まることとなる。19世紀のロシアを騒がせた西欧主義かスラヴ主義かの問題を、彼は音楽において統一させることに成功したのであった。
組曲『四季』は毎月一曲ずつ作曲することを依頼されて完成されたものだが、ロシアの自然、生活、習慣をこよなく愛するチャイコフスキーにとっては苦にならない仕事であったことだろう。それぞれの作品にはロシアの詩の一節がエピローグとして添えられている。
1月 暖炉にて
プーシキンの詩『夢見る人』の一節がエピローグとして付けられている。この曲に関しては題名とプーシキンの詩があらかじめ委託者から与えられて作曲されたことがわかっている。エピローグはロシアの家庭ならばどこでも見られる情景をうたったものだが、もしもプーシキンの詩をもとにこの曲を見るならば、人里離れた野なかの小屋で夢見る孤独な人の姿が浮き上がってくる。
2月 謝肉祭(マスレニツァ)
ロシアの伝統的な謝肉祭であるマスレニツァは“バター週間”という意味で、はやく冬を追い出して春を迎えようとする意を込めたお祭り。冬将軍を追い払うという目的はドイツの謝肉祭にもあるが、19世紀のマスレニツァを伝えてくれる映画『シベリアの理髪師』を見ると、かなり違いがある。このロシア映画のセリフに「何事にもほどほどというものがなく、極端に走ってしまう。それがロシアである」というのがあり、まさに的を射た言葉である。
4月 松雪草
待雪草は春を告げる大使。ロシア人たちが待ちに待った春の訪れである。チャイコフスキーも四季折々で春を一番愛していたという。
6月 舟歌
夏の夜、川辺での愛の語らい。このメランコリーこそ、ロシア特有のもの。
8月 収穫
半音階とシンコペーションがふんだんに使われ、かいがいしく働く農民の姿が生き生きと描かれている。中間部は、収穫に感謝する彼らの祈りである。
10月 秋の歌
チャイコフスキーはロシアの素朴な風景から“えも言われぬ甘美な陶酔感”を味わっていた。この「秋の歌」からは、そうした彼のロシアへの愛情が迸り出る。
ラフマニノフ:ソナタ 第2番 変ロ短調 作品36
優れた芸術家とは、常に心に闇を持っているものではないだろうか。自分を疑う者の人生は過酷だが、その報酬として深い芸術の追及ができると言っても過言ではあるまい。ラフマニノフは、しかし、尋常でないほど自信喪失に悩まされた音楽家であった。彼は、少年時代、両親の離婚という悲しみに襲われたが、それを乗り越えてモスクワ音楽院の学生のときから数々の名曲を生み出した。しかし、交響曲第1番初演の大失敗はトラウマとなって生涯ラフマニノフにまとわりつく。それも心にズタズタに切り裂かれた傷跡を残して。それは1897年のことだった。ときは世紀末。ロシアでは何か刷新的な形式を見つけなければ、たちまち折衷主義だの亜流だのと揶揄される時代にさしかかっていた。ラフマニノフは時代の流れに乗って自分の信念を曲げることなどできないにもかかわらず、その勇気をもつにはあまりにも深いトラウマを背負ってしまった。彼の音楽の河床は、祖国ロシアであり、ロシアの民衆の奥深い生活や自然が彼の芸術の元なのだ。どれだけ交響曲の失敗で傷ついても、知覚に訴える形式の独自性を崇める風潮に巻き込まれることはなく、「亜流」とか「折衷主義」とかと揶揄されてしまう。彼の内面で渦巻く音楽へのパトス。その情熱の凄さと、「犯罪的なほどの精神的謙虚さ」のギャップに彼は苦しむ。
1913年に作曲されたこのソナタ第2番に終始走る緊張感はすざましい。この作品では、上記のような作曲者自身の精神状態のみならず、いつ革命が起きるともわからない暗雲立ち込めるロシアの状況も見え隠れするかのようだ。第1楽章は絶望の鎖を断ち切らんと力を振り絞るような短長格のモティーフで始まり、随所から、差し迫った嵐の憤怒と憂いの入り乱れた鐘の音が聞こえてくる。これこそラフマニノフのパトスである。第二主題は、ロシア正教会の合唱だ。このモノローグの歌声に包まれて、我々は神前で安らぐ。彼が幼少から愛したロシア正教会の空気がここにはある。しかし展開部で『ディエス・イレ』(怒りの日)のモティーフの断片が現れると、また耐えがたい懊悩に苦しむ。そしてそれはとめどなく興奮し、まるで狂ったように鐘が鳴り渡る。再現部で再度第一主題のパトスが現れるが、コーダでは疲れ果て冷たい石畳の上に倒れこむ。
第2楽章は合唱曲『徹夜祷』を予期するかのごとき楽章。ロシア特有のソリストと合唱の組み合わせが美しく、清らかで憂いのあるメロディーが下へ下へと落ちていく。この長い下降のメロディー線は、ラフマニノフ語法の特徴である。後半になると、第1楽章第一主題のモティーフが断続的に現れ、それは徐々に高揚しカリヨンの鐘の音のごとく響き渡る。張り裂けんばかりの胸の思いをぶち撒け、絶望に打ちひしがれるが、傷ついた心に響いてくる聖なる合唱の音に救われて、最後は安らかに終わる。
第3楽章は、ついに春の到来を告げる。第1楽章の第一主題が変ロ長調の3連符の音型になって、まるで大河を流れるかのごとく勢いのよい姿を見せる。第二主題は、『ディエス・イレ』の動きが長調で現れる。私はこれを愛の象徴と感じている。1931年このソナタは改訂されたが、そのときラフマニノフは再現部から第一主題をカットした。そのため、展開部で高揚した第一主題が高らかに愛を謳う第二主題に繋がり、クライマックスを形成する。この情熱に、すべての争い、いさかいは解消され、愛のエナジーの上に終結する。