プログラムノート

シューベルト・チクルスⅨ

2008年11月19日
浜離宮朝日ホール

1827年という年 ベートーヴェンの死―健康状態の悪化

 1827年2月、シューベルトは友人ショーバーの家に引っ越す。2月といえば、連作歌曲集「冬の旅」の前半12曲が誕生したときであった。
 その頃、ウィーンではベートーヴェンが死の床についていると噂されていた。シューベルトはベートーヴェンに多大なる尊敬の念を抱いていたにもかかわらず、同じ街に住む大巨匠に会うことはできなかった。というより、会う勇気がなかったという方が正しいのかもしれない。しかし、同じ街で、同じ空気を吸い、第9交響曲のコンサートを聴き、ベートーヴェンのいきつけのレストランに足を運ぶだけで、はにかみ屋のシューベルトは幸せだったのではないか。3月29日ベートーヴェンの埋葬式には、棺の傍らに松明をかざして歩くシューベルトの姿が見られたのであった。
 9月、シューベルトはグラーツに出かけている。2年ぶりの旅行を彼は心から喜んだ。この頃は、まだ、それだけの健康状態にあったのであろう。しかし、このグラーツ行きが彼の最後の長旅となった。(1828年にハイドンの墓参に出かけているが、このときは3日間だ けであった。) ウィーンに戻ったシューベルトは、9月27日、グラーツのパハラー夫人宛に手紙をしたため、ウィーンに馴染みきれない様子をほのめかしている。「グラーツでいかに気分よく過ごしていたのか、私はもうすでに気づくばかりです。未だにウィーンという街は、私には理解できかねるのです。勿論、少し大きい街ですが、それと引き換えに、温かい心、誠実さ、真の思考、理性に満ちた言葉、そしてとりわけ、精神性のある行為に欠けているのです。…」
 その後、彼は健康状態の悪化を訴えるようになる。絶え間なく襲ってくる頭痛、めまい、発熱、など…。また、過去の病いが疼きだしたのだ。「いつもの頭痛がまた身にこたえ始めた...」(1827年10月12日の手紙より)
 こういった状況にありながら、彼は多くの作品を生み出していく。10月には連作歌曲集「冬の旅」の後半12曲が完成し、また時を同じくして、ピアノトリオ第1番、第2番が作曲される。さらに、ピアノ曲にも名曲が生まれる。「楽興の時」と、2つの「即興曲集」である。これらは、シューベルトの代表的な作品として、後世にその名を轟かせることになる。このような「小品集」は、シューベルトがピアノ曲のジャンルで、彼の力量を発揮するに最適の形式であった。「歌曲王、シューベルト」は、ついに、ピアノで歌曲を、つまり「無言歌」を歌いあげることに成功したのだった。

1828年 死の年

 ベートーヴェンの一周忌にあたる1828年3月26日、シューベルトは初めて自作自演のコンサートをウィーンで開く。この謙虚な天才は、友人たちから励まされてようやくコンサート開催を決心したのだった。コンサートは大成功に終わり、かなりの収入にも恵まれた。しかし、その3日後、パガニーニの公演で沸いたウィーンは、あっという間にシューベルトの名前を忘れてしまった。とはいえ、当のシューベルト自身は、意気消沈などしていなかったであろう。すでに彼の内部では、新たな作品の萌芽が始まっていたのである。
 その後、彼はますます精力的に作曲を続ける。10月末までのわずかな日々に彼が書き残した作品数は、驚くばかりである。「白鳥の歌」を初めとする幾多の歌曲、3つのピアノ・ソナタ、室内楽、ミサ曲など、健康を害している人間のわざとは思えない。彼は無意識に自分の死期を察していたのかもしれない。
 10月31日、シューベルトはレストランで魚料理を口にした途端、吐き出してしまい、「毒が入っているようだ!」と叫んだと言われる。その後、11日間食べることも飲むこともできなくなり、11月4日以 降はついに床に就いたままとなる。9月より兄フェルディナンドの家に住んでいたシューベルトは、こうして家族に看病されることとなった。文字通りの「さすらい人」であった彼が、最後、愛する兄のもとで死期を迎えることになるとは、不思議な運命である。この間、友人たちは彼の病状を心配していたものの、瀕死の天才を見舞ったのはごく数人にすぎなかった。多くの友人たちは感染を恐れて近寄ろうとしなかったのである。
 11月19日午後3時、シューベルトは帰神した。31歳の若さであった。

「楽興の時」D780

 作曲年代は3番が1823年、6番が1825年、そのほかは1827年あるいは1828年初めまでに作曲されたものと思われる。1828年に全6曲がまとめて出版された。出版にあたって付けられたこのタイトルを、シューベルトは大変気に入っていたらしい。
 先にも記したように、「小品集」という形は、彼の力量を発揮するに最適のものであったが、「即興曲」と「楽興の時」は微妙に違っている。「楽興の時」には「即興曲」に比べて規模の小さい作品が収められており、性格的小品の集まりになっている。しかも、作曲年代が違う6曲が収められているにもかかわらず、細心の注意を払って選ばれた調性により見事に配置され、いわばピアノのために書かれた連作歌曲集といってもいいような流れをもっている。

第1番 ハ長調

 無垢な爽やかさ溢れる作品。ヨーデル(アルプス地方の農民の民謡)か角笛を思わせるテーマ、カッコウの鳴き声を思わせる3度音程のモティーフ、山びこ、小川のせせらぎなど、自然を彷彿させるモティーフが随所に見られ、混じりけのない素朴な美しさが曲集のオープニングを飾っている。シューベ ルトが愛してやまなかった自然への憧憬が感じられる。

第2番 変イ長調

 変イ長調の主部と嬰へ短調の挿入部とのコントラストが、人生の二面性を覗かせる。一方で田園風の温かさを持ちながら、忍び寄る憂愁の思いに苛まれる。ついには、強音になって、いたたまれない思いを訴えられると、胸のしめつけられる思いがする。

第3番 ヘ短調

 もともと1823年に「ロシア風の歌」と題して作曲された作品。何を思って「ロシア風」と命名したのか定かで はないが、この作品の持つメランコリックな性格はロシア風と言えるものであろう。
 1823年というとシューベルトの梅毒が発病した、あのおぞましい年である。この作品は例えようのない苦しみの中にあった彼が、絶望と希望の狭間で書いたものと思われる。

第4番 嬰ハ短調

 憂鬱な趣が絶えず動く音型によって表現される独創的な作品。ここでもメランコリックな性格が主部を支配している。しかし、長調に転調した中間部が柔らかい光を投げかける。ここに使われたシンコペーションのリズムは、つまずきや意外性ではなく、温かさや優雅さを表現しており、シューベルトならではの世界である。

第5番 ヘ短調

 ダクチュルスのリズム(3音からなるモティーフで、第1音目にアクセントのある、長一短一短のリズム)がたたみかけるように続き、いかなる思いが炸裂するのか、怒り狂った様子を提示する。しかし、最後に突然へ長調に転調する。あたかも、彼が、地獄から逃れ出たというかのように。

第6番 変イ長調

 1825年に「吟遊詩人の嘆き」と題されて作曲された作品。とはいえ、曲集の最後に置かれたこの作品からは、数々の苦悩を通り越してきた人間が、様々なる運命を受け入れたうえで辿り着いた安らぎの世界を思わせる。テーマはため息のモティーフで書かれており、それは休符の力を借りてより強調されている。主部には、歌曲 「希望」の前奏と瓜二つのメロディーが出てくるが、希望とため息は人生において兄弟姉妹なのかもしれない。

3つのピアノ曲 D946

 「即興曲」とも呼ばれるこの作品は、しかし、D899とD935の8つの即興曲と、いささか趣を異にする。1828年に作曲されたこの3曲は、「リート (歌曲)」をピアノだけで歌いあげた「歌手のいない歌曲」といえるもので、ピアノという楽器に全く捉われていないことがうかがえる。それゆえに物足りなさを感じることもあるのかその完成度が議論されることもあるが、観点を変えてみるならば、音楽としての真意は決して他に劣るものではない。

第1番 変ホ短調

 まるで嵐が丘を駆け巡るヒースクリフを彷彿させる。彼を半狂乱に追いやったものは、一体何なのか… 対照的な、安らぎに満ちた中間部で、一時は救われるものの、この非現実的な幸せは続かない。なお、シューベルトは当初2つの挿入句を作曲したが、2つ目の挿入句は彼自身の手によって削除された。

第2番 変ホ長調

 2つのエピソードを持つ。限りなく優しいメロディーが耳に馴染みやすい主部。それに、自然の轟く音に戦慄を覚える第1エピソードと、心の痛みを訴える第2エピソードが挿入される。

第3番 ハ長調

 不思議な、謎めいた魅力を持つ作品。軽快なのか躊躇しているのか、喜んでいるのか悲しんでいるのか、判り難く、本心を隠しているかのように始まる。歌曲集『白鳥の歌』の「別れ」のように、心が痛み涙に眼が潤うからこそ、軽快なリズムを施し、より痛みを強調することがある。そういった底の深さをここでも見逃してはなるまい。中間部の嘆きの歌は、心を捉えて放さない。

ソナタ 第21番 変ロ長調 D960 遺作

 亡くなる2ヶ月前の9月、彼は最後の3曲のピアノ・ソナタを書きあげる。2年ぶりに手がけられたこれらのピアノ・ソナタは新たな境地を示し、なおかつ、3曲それぞれが異なった性格を持っている。その中で、文字通り最後のピアノ・ソナタとなった第21番は、崇高な美を湛えた作品。シューベルトが長年苦労を重ねたソナタ形式による作曲は、ここに及んで、見事な変遷を遂げたのである。
 シューベルトは、人間の繊細な心の襞まで、音に換言することができた。それは、彼自身が、孤独を、そして苦悩を充分すぎるほど味わっていたからであろう。傷ついた心は、普通なら見落としてしまうわずかな出来事や心の動きに微妙に反応する。そうした彼のガラス細工の人形のように壊れやすい繊細な感覚は、人間誰もが抱え込む可能性のある苦しみを、作品の中で代弁してくれた。この作品からは、そうした彼の姿勢を強く感じるのである。

第1楽章 モルト・モデラート 変ロ長調

 郷愁に満ちた歌と苦悶の日々の述懐が入り混じっている楽章。天上的な安らぎをもって始まると、光に照らされ、人生の暗闇から開放される。しかし、このテーマには、常にバス(低音)のトリルが続き、その微かな唸り声が影のように付きまとう。まるで、いつでも地獄に落ちることができるとでも言うかのように。
 提示部にはこのほかに2つの大切なモティーフがある。嬰へ短調で現れる嘆きのモティーフと属調のヘ長調で現れるスタッカートのアルペッジョである。いずれも、シューベルトならではの見事な転調を重ね、独特の世界を繰り広げていく。これら長調と短調の交替は、滑らかに移り変わっていくことが多く、シューベルト自身の人生のように、さすらい人の人生行路を思わせる。展開部には、歌曲「さすらい人」のモティーフや同音連打が現れ、望みなくさすらう姿が浮き彫りにされる。展開部の終わりの部分で、変ロ長調の第1主題が類を見ない美しさで微かに響いてくる。まるで、このさすらい人が最終的に辿り着くところは天界であると暗示するかのように。

第2楽章 アンダンテ・ソステヌート 嬰ハ短調

 傷ついた心を引きずりながらも、歩みを止めないシューベルト。ここには、「冬の旅」を思い出させる世界がある。癒されないまま人生を進まざるをえない人間。どこに辿り着くともわからないまま、懊悩の日々を送る。中間部では、打って変わって穏やかな幸福が全体を支配する。そこは威厳のある愛と光で包まれている。この歓喜は死後の世界なのか… しかし、この光は消え失せ、再度、主部に戻る。最後は筆舌に尽くしがたい神聖なる美しさを湛えた嬰ハ長調に転調し、魂が浄化されたことを告げる。

第3楽章 スケルツォ:アレグロ・ヴィヴァーチェ・コン・デリカテッツァ 変ロ長調

 柔らかい光溢れる楽章。ここには、あたかも地上の重苦しさはもう存在しないかのようであるが、果たして、魂は完全に解放されたのであろうか? 中間部のトリオの部分は、まだ懐疑的な思いを拭いきれない。

第4楽章 アレグロ・マ・ノン・トロッポ 変ロ長調

 この神秘的な快活さをどうたとえればよいのであろうか。「止まれ!」という合図で始まるこの楽章には、悪魔的な性格が潜むと同時に、諧謔性やメランコリーも顔を出し、傷を癒そうとする。そうかと思えば、運命と真正面から闘う力も忘れていない。傷跡を回想しながらも生きることへの意欲を失わない魂は、最後に生命を賛歌して幕を閉じる。