プログラムノート

シューベルト・チクルスⅥ
ソナタ&即興曲の夕べ

2006年3月6日
アスピラート 音楽ホール
2006年3月11日
浜離宮朝日ホール

死の淵から生還して
1824―1825年

 1823年にシューベルトを襲った病魔は徐々に影を薄くしていったものの、心の痛手は大きかった。彼は友人に宛てた手紙にしたためる。“一言で言うならば、僕は自分がこの世で最も不幸で、最も惨めな人間だと思っている。考えてもごらん、健康は二度と回復しそうにないし、絶望のあまり、ことを良くするどころか悪くしてしまう人間を。輝かしい希望も無に帰してしまい、愛と友情の幸せが苦痛以上のものとならず、美への感動も消えうせようとしている人間を。こういう人間を惨めで不幸な人間だと思わないか?……” (1824年3月31日付)。
 しかし、音楽の女神は変わらぬ愛をシューベルトに投げかけていた。“シューベルトは……人間業とは思えないほど懸命に作曲している”と友人シュヴィントが報告しているように、彼は精力的に作曲活動を展開する。この時期は、悉く失敗に終った劇音楽への熱意は冷め、器楽曲の作曲に没頭している。“歌曲では新しいものをあまり作っていないが、その代わりに器楽作品に挑戦してみた……とにかく、僕はこのやり方で、大きな交響曲への道を切り開いていくつもりだ”(同上3月31日付の手紙より)。
 1825年、彼は歌手フォーグルと連れ立って、リンツーザルツカンマーグートーザルツブルグの大旅行に出かける。ザルツカンマーグートの大自然に触れて、子供のように無邪気に喜ぶシューベルト。彼の魂は自然の懐に抱かれて蘇生する。またこの地方での彼の信望は厚く、熱狂的な歓迎を受ける。人々の愛情に満ちたもてなしにシューベルトはさぞかし元気付けられたことであろう。
 前年彼が手紙で明らかにした大交響曲の作曲は、ここで手がけ始められたらしい。これは翌1826年、「ザ・グレイト」交響曲として完成する。また、この環境の中で1825年、ピアノ・ソナタ D840、845、850が生まれる。これらのソナタには、民謡調の要素が随所に生かされていて、独特の味わいがある。

再び死の影に脅かされて
1826―1827年

 1826年、シューベルトは極度の頭痛に度々襲われるようになる。健康状態が優れないうえに、経済的にも苦しい彼は、この年の旅行を諦めざるをえない。同年秋、ピアノ・ソナタ ト長調 D894が作曲されるが、ここにもザルツカンマーグートの思い出が充分息づいており、前年の3曲のピアノ・ソナタと対を成す。
 1827年、シューベルトはミュラーの詩に震撼し、「冬の旅」を完成させる。歌曲の分野における久しぶりの大作である。その頃の彼の健康状態はかなり厳しい状況だったと思われる。「冬の旅」と前後して、即興曲 D899 と D935 が生まれる。前後してというのは、D899の即興曲が作曲された月日がはっきりしていないことと、「冬の旅」は第1部と第2部の完成の間に半年以上の開きがあるためである。それはともかく、シューベルトは即興曲というスタイルで、思う存分自分の音楽を奏でる。これはピアノのために書かれた無言歌集であり、シューベルトの偽らぬ魂の告白であるといえよう。

ピアノ・ソナタ「幻想」ト長調 D894

 「幻想」という名はシューベルト自身によるものではない。1827年ハスリンガー社が、この作品を「ファンタジーとアンダンテとメヌエット及びアレグレット」として出版したため、今日でも冒頭の「ファンタジー」だけが名前として残ったものである。これは明らかに「ソナタ」であるが、この限りなく魅惑的な作品が「幻想」的な要素を孕んでいることは否定できないであろう。

第1楽章 モルト・モデラート・エ・カンタービレ ト長調

 3つのテーマをもとに展開される叙事詩的な楽章。第1主題は五声の重唱で、これがソナタの第1主題になりうるのかと驚かされる。ここには時間から解放された空間があり、その久遠の響きの中に永遠の魂が息づいている。第1主題に寄り添うように現れる第2主題は、揺り籠に揺られているような心地よい伴奏に伴われた歌。第3主題は遠く離れた2つの旋律の間を、鬼火が飛び交うかと思うと、強音の和音になだれ込むという、変化に富んだもの。この3つの主題の後、第1主題が再度現れて静かに提示部を閉じる。打って変わってト短調で始まる展開部は、何とドラマティックなことか。ここでは第1主題と第2主題の性格が完全な対照を成す。あの静閑な第1主題にこのような力が潜んでいたとは…。展開部の最後に出てくるメロディーは、k≪美しい水車小屋の娘≫の『嫌いな色』に出てくる一節“哀れな白い男よ…”という箇所を思い起こさせ、絶望感を隠せない。しかし、穏やかな神聖なる自然はまた戻ってくる(再現部)。コーダでは第1主題が天に吸い込まれるように昇って行き、「幻想」の詩は静かに消えていく。
 シューベルトにとってピアノはどちらかというと冷たい楽器であったし、ソナタ形式というコルセットも長い間無用の長物であった。しかし、この頃には彼は独自のピアノ・ソナタの作風を確立し、ソナタにおいてこれほど魂の言葉を表現することに成功したのである。

第2楽章 アンダンテ ニ長調

 純朴なメロディーが心に染みる第1部と、突然その平和を掻き消すダイナミックな和音で始まる第2部がコントラストを成す。まるで、第1楽章の提示部と展開部のコントラストに呼応するかのように。こうして、この限りなくシンプルなメロディーで始まる楽章は、第2部の挿入によってかなり起伏の激しい抒情詩となった。ここでもシューベルト独特の和声が、万華鏡のように移り変わる響きの饗宴を展開する。コーダつきの二部形式。

第3楽章 メヌエット アレグロ・モデラート ロ短調

 シューベルトはここにロ短調のメヌエットを置いた。ロ短調という孤独な響きの調性を民謡的な性格を帯びたリズムと組み合わせたのはいかなる理由からだったのか。いずれにせよ、その結果、ここにはレントラーのようでありながらも独特の緊張感を帯びた舞曲が誕生したのである。しかし、特筆すべきは中間部である。同主調のロ長調で書かれたこの限りなく崇高で愛らしいトリオは、神秘な世界を映し出す。

第4楽章 アレグレット ト長調

第3楽章の民謡性はこの楽章に至って、もっと明瞭に表現される。第一主題で相槌を打つのは、4つの柔らかい8分音符の和音連打。これは実に特徴的なモティーフであるが、シューベルトの耳に響いていたのは一体何だったのであろうか。鼓動の音か、ノックの音か、それとも、自然の彼方から聞こえてくる魔法の音だったのか…。いずれにしても、第3楽章から、もっと遡れば、1825年に作曲されたソナタから受け継がれたこの特徴的な4つの音が、この第4楽章の性格付けに大きな役割を果たしている。中間部では、メランコリーな旋律が顔を出す。このエレジーともいえるハ短調のメロディーは、2度目、ハ長調の清らかな詩に変わり、その素朴な美は私達の耳を魅了するものの、哀愁の影は拭いきれない。コーダがまた独特である。一体この音楽がどこへ進んでいくのかわからず肩透かしを食らっているうちに、突然1オクターヴ上で第1主題が走馬灯のように現れ、遥か彼方へと消えていく。

4つの即興曲 D899

第1曲 アレグロ・モルト・モデラート ハ短調

 運命の時を告げるかのごとく打ち鳴らされるオクターヴで始まるバラード。伴奏無しで語るメロディーは、薄幸の運命を嘆くかのようだ。慰めるように答える合唱はどこから聞こえてくるものなのだろうか…。この問答が繰り返されるうちに、合唱は大音響に発展する。まるで運命の支配下に抑え込まれるかのように。続いて現れる変イ長調の第2主題で、魂は幸福な時代を振り返る。この2つのテーマは第2部で様々な形に変奏され、劇的に展開される。そこでは果てしなく続く同音連打が打ち鳴らされる場面にしばしば出会い、背筋の寒くなるような恐怖感を覚える。最後はハ長調に辿り着く。このハ長調には複雑な色が込められており、死と共に救われたのではないか、と思わせる。
 シューベルトは長調と短調の交替を巧みに使い、人間の心理の綾を微に入り細にわたって表現することに成功したが、ここにもその技法が駆使され、割り切れない心のうちが見事に表現されている。

第2曲 アレグロ 変ホ長調

 まるで真珠の転がるようなパッセージが、清楚な美しさを湛えて流れていく。これは間断なく続き、繊細な和声的変化を潜り抜けながら、眩いばかりに輝き続ける。しかし、高揚し始めるといつのまにか変ホ短調に変わり、そのままロ短調の 中間部に突入する。第2部を構成するのは対話である。まるで誠実な心が神の摂理に苦しみながら自問自答しているかのようである。とはいえ、決して気高さを失うことはない。やがて優しいパッセージが甦り心は癒されるが、再度、対話の部分が現れ、今度はロ短調から変ホ短調へと高揚していく。 最後は悲嘆に暮れて奈落の底へ真っ逆さまに落ちていく。

第3曲 アンダンテ 変ト長調

 限りなく優しい愛の歌。しかし、心を痛めずにこの愛すべき作品を聴くわけにいかない。ここではシューベルトが味わわなければならなかった苦難への慰めを求める祈りが聞こえ、「それでよかったんだよ」と答える天使たちの声も聞こえてくる。変ト長調という幻想的な調性が私たちを幻の世界へと誘ってくれる。

第4曲 アレグレット 変イ長調

 太陽の光を浴びて煌く水面を思わせる16分音符のパッセージが、哀愁を帯びて響く。これは突然変イ短調で流れ始めるが、変ハ長調という稀な調子に移り、更にロ短調へと転調を繰り返した後、ようやく主調の変イ長調に辿り着く。ここで、左手にバリトンの歌が加わると、歓喜に満ちた響きに姿を変えていく。シューベルトがこれを変イ長調として作曲したことは、実に興味深く、我々の想像力を鼓舞する。中間部は、かなり劇的なエレジー。伴奏の連打は不穏な心のうちを隠し切れない。

4つの即興曲 D935

第1曲 アレグロ・モデラート ヘ短調

 全8曲の即興曲の中で、最も「冬の旅」に性格が近く、絶望感の支配する中に追懐の情が生きている作品。形式はA-B-C-A -B2-C2-A"(コーダ)。Aの部分は雪に覆われた灰色の世界。ここでは闇の声が聞こえる。Bは長調の部分で、様々な色彩がちりばめられ、遥か彼方に記憶を辿るかのようである。Cの部分では、対話が心の痛みを訴えてくる。最後、冒頭のメロディーがコーダとして現れるが、そこにあるのは、やつれ果てた姿でしかない。

第2曲 アレグレット 変イ長調

 これだけの僅かな音でここまで豊かな詩が歌えるのは、シューベルトならではの驚異であろう。子供のような無邪気さをもちつづけ、つつましやかで、友人との楽しい集いを喜び、ただ溢れ出る音楽に身を浸すことが最高の幸福だったシューベルトの夢が、ここに実現している。中間部では、アルペジオの動きに乗って、彼は夢の中を自由に飛翔する。

第3曲 テーマ アンダンテ ― 5つの変奏曲 変ロ長調

 劇音楽『ロザムンデ』第3幕への間奏曲から取られたメロディーをテーマに、5つの変奏曲が並ぶ。ここでの『ロザムンデ』は軽やかな美を湛えているが、これは夢なのか幻なのか……。第1変奏曲はさらに幻影的になり、第2変奏曲ではよりリズミカルになる。ところが、第3変奏曲では突然デモーニッシュに変身。変ロ短調で現れるこの変奏からは呻き声やすすり泣く声が聞こえる。しかし、第4変奏曲では変ト長調になり、高みへと昇っていき、第5変奏は変ロ長調に戻って、喜びに胸を震わせる。コーダが静かにテーマを奏で、曲を閉じる。

第4曲 アレグロ スケルツァンド へ短調

 情熱的な即興曲。コーダつきの三部形式。ハンガリー音楽を思わせるリズムが、実に特徴的。中間部では優しくそよぐ風や木の葉を思わせるパッセージが続くかと思うと、物悲しい踊りがその流れを遮る。第1部が再現された後、ヴィルトゥオーゾなコーダで全4曲を締めくくる。