プログラムノート

シューベルト・チクルスⅤ

2005年6月10日
アスピラート 音楽ホール
2005年6月15日
東京オペラシティ・コンサートホール

苦悩の果てに一「美しい水車小屋の娘」から「冬の旅」へ

 1823年の忌まわしい病気との闘いの中で「美しい水車小屋の娘」を作曲した後、シューベルトの健康状態は徐々に快復していった。とはいうものの、彼自身、完全な健康体に戻ることはないことをしっかりと感じていた。当然、彼の精神状態は一変する。残されている1824年3月の日記は、苦悩の中から人生を見つめるシューベルトの姿を伝えており、この死闘から生まれた言葉は心に重く突き刺さる。
 性格柄、シューベルトは友人達の間で明るさを保っていたに違いない。だが、世間から認められなくても仲間に囲まれて陽気に暮らしたという表面的なシューベルト像は、氷山の一角にすぎないであろう。その水面下に潜む暗闇。明と暗、生と死は彼にとって表裏一体だった。
 1824年5月シューベルトはハンガリーのゼレチェを訪れ、11月まで滞在する。あのおぞましい発病事件から意識をそらすには一番の療法であっただろう。しかし、1818年21歳の夏にこの土地を訪れた時と違って、シューベルトの淡い恋心は火がつくまでには至らなかった。1824年7月、彼は兄フェルディナンドに書き送った。“人は幸せだった場所に幸せがあるものだと思っているけれど、幸せはただ自分の中にあるだけなんだ”それでも、旅は人間を絶望の淵から救う。1825年の5ヶ月に亙る旅行も、彼の心の悩みを紛らしてくれたに違いない。歌手フォーグルとのコンサートは好評を博したし、シューベルトのピアノ・ソロの演奏も感動を呼び起こした。彼にとってこれだけ嬉しいことはなかったであろう。しかし、病魔は彼をそっとしておいてはくれなかった。1825年末、シューベルトは激しい頭痛に悩まされ るようになる。
 このような状況下、さらに、出版社との交渉という厄介な重荷に苛立ちながらも、シューベルトの作風はまた変遷を遂げていく。彼の人生は彼に年若くしての完成を迫っていた。1824年から1826年の間、彼は器楽作品に集中する。この時期、ピアノ・ソナタに独自の境地を確立したし、弦楽四重奏曲にも3つの名曲を残している。これらの試みを通じて彼は、大きな交響曲を書きたいと望んでいた。1824年 3月31日の手紙がそれを伝えている。この計画は1828年交響曲第9番「グレート」として就実することとなる。
 しばらく影をひそめていた歌曲の分野に、1827年第二の連作歌曲集が生まれる。「冬の旅」である。「美しい水車小屋の娘」と同じ、詩人ミュラーの詩につけられた作品で、やはり失恋を扱ったものだが、この二つの歌曲集はあまりにも性格を異にしており、ここに描き出されたのは悲嘆に暮れた陰鬱の世界である。苦しみの中で生きていかねばならぬ人間の姿が如実に表されたこの作品には、シューベルトの人生がそのまま滲み出ている。

「冬の旅」の誕生

 1827年2月、シューベルトはミュラーの詩による12編からなる詩をテキストに、歌曲集を作曲した。これが現在の「冬の旅」の前半12曲である。この第1部が完成した時、シューベルトは友人たちを集め、自ら全曲を歌って披露した。しかし、この作品のもつ陰鬱さはそれまでに例を見ず、シューベルトを崇拝する友人たちですら返事に詰まってしまった。ショーバーが、本当に自分の気に入ったのは「菩提 埼」だけだと言ったのに対し、シューベルトは「僕はほかのどのリートよりもこれが気に入ってるんだ。君たちも今にきっと好きになるよ。」と答えたと言う。
 同年、晩夏になってシューベルトは、詩人ミュラーがさらに続編として12編の詩を発表していたことを知る。一度は12曲で連作歌曲集を完成させていたシューベルトだが、この続編も彼を震撼させたのであろう。早速第2部の作曲に取り掛かり、10月に完成させる。
 第1部は1828年1月に出版。第2部は同年12月に出版されたが、そのときすでにシューベルトは帰らぬ人となっていた。死の床で、彼は第2部の最後の校正を行ったと伝えられる。

シューベルトと「冬の旅」

 久しぶりに歌曲のジャンルに大曲をもたらすきっかけとなったのは、 ミュラーの詩「遍歴の旅一冬の旅」という、何とも暗いうちひしがれた内容の詩集であった。シューベルトがこれに共鳴したという事実は、当時の彼の心理状態を示唆している。「美しい水車小屋の娘」を作曲した時と同じように、「冬の旅」の主人公にもシューベルトは自分の姿を見たのであろう。
 彼が病いと共に人生を旅する運命を享受せざるをえないことを感じていたとはいえ、徐々に激しさを増す頭痛が、いかに孤独な彼を脅かしたことか、想像に難くない。内なる欲求から新しい試みへの挑戦に胸躍らせ、前人未到の芸術を生み出したにもかかわらず、所産が悉く日の目を拝まず、いつまでも経済的危機にさらされたシューベルト。そんな彼を病いがこれでもかこれでもかというほど襲い掛かれば、“死”に憧れるのも無理はない。死ぬことすら許されない悪夢の日々を耐えることは、死よりも苛酷なのだ。そんな日々をシューベルトは身をもって経験していた。その彼が、すべてを失って旅に出る「冬の旅」の若き主人公の、その肢体に巣食う老いた精神に、自分を重ねてみたことは容易に想像できるであろう。

「冬の旅」

 恋に破れた若者が、愛しい人の住む街を去っていくところから、話は始まる。麗しの春にこの街にやってきたこの若者は、美しい少女と恋仲だった。でも今では彼女は裕福なところの花嫁となってしまった。時は過ぎ、今は冬。あたり一面灰色で暗澹たる世界。彼はお別れに“おやすみ”と彼女の戸口に書き残して、夜の暗闇の中に想い出の街を去っていく。そこから始まるあてのない旅。ここには「美しい水車小屋」に見られるような、物語の展開はない。これは人間の心の旅路を描いたモノドラマである。各曲に現れるシーンは、まるでスライドを見るように断片的に現れる。
 犬には吠えられ、からすには雪を投げつけられ、彼女の家の風見の旗は彼を嘲り笑う。誰も彼に同情するものはいない。彼女と手を取り合って歩いた緑の草原も雪に覆われ、この二人の愛の軌跡を残しているものはもう何もない。あるのは心に残る想い出だけ。これだけを胸に若者はひたすら歩きつづける。
 こういった恋の想い出とその傷に苦しむ若者の思いが第1部では中心になっているが、第2部になると様子が変わってくる。彼女のことは徐々に影が薄れ、過去から離れるための旅ではなく、死への道を歩くようになる。寒さが彼を麻痺させたからか、彼女への想いに疲れたからかわからないが、彼を慰めるのは過ぎ去った麗しい想い出ではなく、死への思慕となる。これはシューベルトの作曲によってより強調されることとなった。
 死はいつも仄めかされるが、死神はまだ彼を迎えにきてはくれない。主人公の若者は最後に辻音楽師に会う。素足のまま厳冬のさなかに村のはずれでライアーを回し続ける老人。無関心、無感動のこの老人に若者は自分の姿を見ているのか。彼の終わりなき旅はまだ続く。

1. おやすみ

 すでにずっと歩き続けてきたかのように始まる前奏。8分音符の動きはこの曲全体を貫く。ここにあるのは主人公の意志による旅立ちではなく、運命に支配されたやむなき旅出である。主人公はどこに行くべきかわからない。変化された有節形式で書かれているが、シューベルトは一種のソナタ形式を盛り込んだ。再現部が長調で現れるが、ここに、最も大切な部分が隠されている。それは愛した人への想いであり、愛したことへの讃歌だ。そして“そっと、扉を閉める”という行為は、彼が自分の過去に終止符を打つ姿を暗示する。

2. 風見の旗

 風に翻弄されてはためく風見の旗、そこに彼はさまざまな姿を見る。それは去っていく惨めな男を嘲る姿であり、彼女の心変わりを象徴する動きであり、そして、また行き先のわからない自分の姿でもある。シューベルトはこの作品に数多の推敲を重ねたと伝えられる。根無し草のようなユニゾンの動き、数々の転調など、様々な音楽語法が駆使されている。

3. 凍った涙

 凍った涙が頬を伝って落ちる。泣いたことにすら気づかなかった主人公。そこにはすでに寒さに感覚を奪われた姿がある。伴奏のスタッカートとシンコペーションが凍った涙を見事に表現しており、その上を悲哀に満ちた主人公の心が切々と歌われる。

4. 氷結

 彼は自分の狂おしさを激しく語る。彼女を慕う心は今でも消えうせてはいない。雪の中を彼女との思い出を探して放浪する主人公。曲全体を不穏な三連符が吹きすさぶ。これは彼の心に巣食う失恋の苦味であり、自然の厳しさでもある。さらに4拍目に置かれたアクセントが追い討ちをかける。

5. 菩提樹

 初めて主人公は自分の安らかな時を思い出して語る。菩提樹は彼の心の友だった。過去―現在―未来と大きな時間の広がりを孕むこの歌詞を、シューベルトは長調と短調の交替で表現した。冒頭の伴奏に現れる右手の三連符には「氷結」の伴奏のメロディー線が隠されており、夢と現実が表裏一体をなすことを暗示している。

6. あふれる涙

 「雪どけ水」とも訳されるこの詩は、溢れ出た涙が雪に溶け、その雪が融けて水流となり小川となって彼女の住む街を流れていくという情離溢れる劇的なもの。
 しかし、シューベルトはここに水の流れを暗示する音型ではなくサラバンドのリズムを用いて、苦悩に満ちた悲しみを強調した。もともとシューベルトはこの曲を嬰へ短調で書いたという。後に声域の関係でホ短調に書きかえたが、嬰へ短調のもつ嗚咽の聞こえてくる悲しみの性格が欲しかったのであろう。なお、冒頭の伴奏に現れる音型は「菩提樹」に類似する。ここで、嘗ての夢はまた現実となって姿をあらわす。

7. 川の上で

 前奏の簡単な音型が、凍りついた川と冷えきった若者の姿を浮き彫りにする。“中庸な速さで”と記されていたこの曲は、後に“遅く”と書きかえられ、葬送行進曲を彷彿させるものとなった。凍りついた表面とは裏腹に氷の下を滾る水流。この逆巻く流れは表面化できない彼の心の内そのものだ。渦巻く水流と氷の固い冷ややかさとの対比が、ドラマティックな展開をみせる。

8. 回想

 主人公の躓き、狼狽が暗示される前奏。いつも何かに追われているように響く右手の後打ちのリズムが耳から離れない。中間部で過ぎ去った日々に思いを馳せ、再現部ではまた現実に戻る。ここでもシューベルトは長調と短調の交替を巧みに使って、微妙に心の移ろうさまを表現した。最後、“彼女の家の前に佇んでいたくなる”が長調で現れ、主人公の捨てきれない恋慕の情を漂わせつつ曲は終る。

9. 鬼火

 前奏のユニゾンは闇夜にボーっとともる青火そのものだ。更に、ゆらゆら動き、つかみどころのない怪火を表す三連符。まさに天才の成せる業である。また、減四度音程、減七和音の間に現れる長調が、実に不気味に響く。2回目に現れるテーマは変奏されているが、それは「川の上で」のテーマを思い起こさせる。奇怪な世界にたじろぎもしない主人公。既に感覚は麻痺し始めているのであろうか。

10. 休息

 休もうと思って初めて自分の疲れに気づく主人公。しかし、手足は休もうとしない。休むことが心の痛みを思い出させるのだ。“中庸な速さで”と記され、動こうとする肢体の意志を思わせるが、それと同時に、伴奏のシンコペーションが肢体に抵抗する心の動きを表すかのようだ。

11. 春の夢

 アウフタクトのたった一つの8分音符が世界を一変する。麗しの五月を夢見る若者。たとえようのない美しさを湛えるこの冒頭は、僅かこれだけの音で至福の時を表現するシューベルトの驚異的な才能を物語っている。雄鶏の朝を告げる鳴き声で夢が無惨に掻き消される。現実は暗く、もの悲しい。三種類のテンポで書き分けられたこの曲の中には、夢―現実―願望が表わされ、起伏の激しいものとなっている。

12. 孤独

 1827年初めミュラーの詩を12曲だけ知ったシューベルトは、当初この「孤独」を連作歌曲集の最後の曲として作曲した。おそらく彼は第1曲に呼応させ、ニ短調を選んだのであろう。しかし、ここでの足取りは「おやすみ」と違って重く、若者は呆然としている。通作歌曲のこの作品は起伏が激しく、劇的な展開を見せる。減七のトレモロを伴った溜息、同音連打と共に高揚する心の痛み。遂に彼は胸中を吐露するが、絶望のうちに曲は閉じる。

13. 郵便馬車

 通りから聞こえてくる郵便馬車の角笛と馬車の蹄の音。若者は、この音に高鳴る自分の心を、第三者的に見つめている。一見希望に溢れたようなこの曲には、苦々しい思いが潜んでおり、ここで使われている長調はアイロニーに満ちて響く。

14. 霜おく頭

 既に“望み”という言葉は主人公には縁遠い。朗読的に歌われるこの曲は、“墓場”が、そして“死”が彼を捉え始めたことを示す。主旋律を支えるのは単なる和音。その沈黙が実に薄気味悪い。最後、主人公は声を大にして苦しみを吐き出す。

15. からす

 “死”を予感させる鳥、からす。その不気味さとこの妙な鳥に憑かれた主人公の思いが溶け合い、異様な魅力を放つ曲。一見美しいメロディー線の背後で常に聞こえる16分音符が黒い鳥の羽ばたきを思わせ、戦慄を覚える。

16. 最後の望み

 いまにも風に吹かれて飛んでいってしまいそうな枯葉。その脆さが彼に不安感を与える。長調で書かれているが冒頭から減七和音が現れ、一体何詞なのかわからない。短三度や短二度の下降がスタッカートで現れ、はかない姿を描写する。伴奏と歌の強拍部が半拍ずれることにより、聴く者を不安に陥れる。印象派の音楽を先取りしたような作品である。

17. 村で

 冬の夜更け、あたり一面雪に覆われた村。人々は寝静まっており、聞こえるのは犬の吠える声とその鎖の音。既にテキストからも音が聞こえてきそうである。とはいえ、ここでシューベルトが書いた音は実に独創的で画期的なものであった。和音の同音連打とトリル。しかもトリルが三度上行して余韻を残して切れる。恰も何かに抵抗するかのように。そしてそれに続く沈黙。この沈黙という“音”は実に不気味だ。

18. 嵐の朝

 ユニゾンで力強く始まるこの曲は、絶望や死の色濃いこの歌曲集の中にあって、運命に立ち向かう姿を表す。嵐に引き裂かれた雲は主人公そのものであろう。しかし、そこに差し込む真っ赤な炎のような朝陽。これは生への渇望の象徴か。至るところに減七和音が散りばめられ、死に物狂いで生きようとする姿が浮かび上がる。

19. 幻影

 “幻影”は“鬼火”と同じく幻想的な奇怪な光。ここでは、親しげに 踊って若者をそそのかす。伴奏の踊りのリズムは、“憧れ”を思わせながらも右手のオクターヴと相まって空虚感を与える。ゆらゆらと揺れるつかみどころのない動き。あてもなく飛翔する光に喜んで翻弄される若者。陰鬱な世界で垣間見る束の間の幻影である。

20. 道しるべ

 第1曲目「おやすみ」を思い起こさせる足取りが戻ってくる。しかし、ここで進む道は“死”へ続く道。孤独で哀れな歩みである。安らぎ(死)を求めて安らぎのない旅を続ける主人公。第4節になると減七和音の上を歌は“G”の音に張り付いたようになる。そして三度ずつ上っていく過程は運命の足取りとも幽霊の行進とも言えるような不気味なものに変化する。最後は疲れきって絶望の中に身を投げる。

21. 宿

 何と深く魂の内奥に染み入る音楽であろうか。曲に耳を傾けた後でこの歌詞の内容を知ると、人は皆、驚愕するに違いない。これこそまさにシューベルトが“死”に対して抱いていた感情なのだ。ミュラーは“墓場”を“宿”と呼んだ。これも既に私たちのファンタジーを鼓舞してやまない。教会の合唱のように響く伴奏。それは徐々に上行し、少年合唱団の声に変わっていく。シューベルトにとって懐かしい音である。しかし、ここでも安らぎを得られない主人公は、まだ先へ進まなければならない。痛みを背負ったまま進む姿が感動を呼ぶ。

22. 勇気!

 「嵐の朝」に続いて、再度闘う意志を見せる。短調と長調が交互に現れ、弱気を吹き飛ばす。もともとイ短調で書かれたこの作品は、「風見の旗」に呼応する。ここでは、もう運命に翻弄されないと宣言するのだ。しかし、シューベルトは長調でこの曲を締めくくらなかった。短調から抜けきれない主人公の勇気は、空しさを隠しきれない。

23. 幻の太陽

 冬の青空に輝く三つの幻の太陽。そのうちの二つを恋人の瞳に例える。シューベルトはホルンの重奏を思わせる伴奏形をあてがい、極めて厳かな世界を作り出した。そこにあるのは神格化された彼女への恋であり、愛の讃歌である。そして今、彼は頭を垂れて暗闇を受け入れようとする。運命を享受した姿が伺える。

24. 辻音楽師

 酷寒の中、虚ろな眼で、無関心、無感動なままライアーを回す辻音楽師。この老人は自分の人間性を無視されることに慣れてしまっている。何と恐ろしい情景か。シューベルトはバスにドューデルザックの五度を置き、ライアーの持続音を鳴らし続けた。一向に変わらないバスと、伴奏として挿入される変化に乏しいメロディーが、若者の語りかけに反応を示さない老人の姿を表す。さらに、シューベルトは同じモティーフを繰り返すことによって、人生が先に続いていくことを暗示した。人間性を無視されるという惨めな状況にありながらも、生きていかねばならない苛酷さを味わう苦しみは、現代においてもいつ我々の身に降りかかってくるかわからない。これは永遠に消え去ることのない光景なのかもしれない。