プログラムノート

シューベルト・チクルスⅠ

2003年2月8日
東京文化会館小ホール

シューベルト ~ 20歳頃までの足跡

子供時代

 フランツ・シューベルトは1797年1月31日ウィーン郊外のリヒテンタールに生まれる。モーツァルトの死後 6年が経ち、ハイドンが65歳、ベートーヴェンが27歳の時であった。
 幼い時から父や兄のもとでヴァイオリンとピアノを異常に早いスピードでマスターし、「これからは自分で学んでいくよ」と言ったという。更にホルツァーのもとで歌唱、オルガン、通奏低音、和声法を学んだが、この師も、「何かを教えようとするとこの少年はもう既に知っていた」と語るほどの早熟振りであった。

神学校時代

 1808年、11歳の時、宮廷少年合唱団の入団試験に合格。更に帝立=王立神学校へ入学して、寄宿舎生活に入る。喜ばしいはずのこの合格は、しかし、シューベルトにとって愛する家族との別離を意味した。16歳の時までを過ごしたこの寮はまるで「監獄」だった。陰気な寄宿舎は彼を怖がらせ、寮の厳しい規則のもとでの生活は、過ぎ去った幸せな日々への郷愁を誘った。その間、1809年にはフランス軍もウィーンに突入。ナポレオンはシェーンブルンに陣取っていた。相次ぐ発砲の音に、フランツ少年は暗く冷たい寄宿舎でろうそくの灯りのもとに怯えていたに違いない。
 寮友の回想によると、彼はいつも独り離れたところにいて、沈みがちだったという。しかし、ここで彼は、幸いにして生涯の友人を見つける。9歳年上のシュパウンである。やがて、シューベルトは自分の作曲をシュパウンに聞かせる、父には内緒にしていて欲しいと頼みながら。
 この辺がモーツァルトやベートーヴェンの境遇と違うところだが、父親はどうも彼を音楽家にするつもりは無かったらしい。辛苦な寮生活を強いられながら、更に父の目を盗んで作曲をしなければならないとはいかなる境遇だったであろうか。彼には五線紙を買うお金も無かったので紙に五線を引いて作曲していた。時には、その紙すら手に入らないこともあった。そんな時は、シュパウンがそっと五線紙を差し入れた。
 こうして、1810年頃から作品が生まれ始めた。彼が13歳の時である。しかし、作曲に夢中になって勉強のおろそかになったシューベルトは父親から作曲禁止を言い渡され、家の敷居をまたぐことすら禁じられる。そんな時、愛する母がチフスで急死。彼が15歳の時である。母の死の知らせに自宅へ戻ったシューベルトは父と和解する。

教員生活

 変声期を迎えた彼は合唱団を退く。そして、1813年神学校も後にする。しかし1812年に始められたサリエリのもとでの対位法の勉強は続けられた。作曲は続けながら、教員資格を得るために師範予備科に通い始める。そして、1814年17歳の時、父の学校の助教員となる。彼にとって小学生の腕白どもを教えるのはどんなに苦痛なことであっただろうか。しかし、兵役を免れるためには他に方法がなかった。
 1814年10月19日〈糸を紡ぐグレートヒェン〉が作曲される。この作品の完成度を思うとき、シューベルトの早熟ぶりには驚嘆させられる。この後から1815年(18歳)まで、シューベルトは150曲というおびただしい数のリートを作曲する。その中には、〈魔王〉、〈竪琴弾き〉、〈野ばら〉も含まれている。1815年といえば、ウィーンはまだウィーン会議で踊っていた頃である。ウィーン市でベートーヴェンの作品がもてはやされていた頃(尤も、ベートーヴェンの霊感は皮肉にも枯渇し始めており停滞期に入り始めていたのだが)、貧しい一助教員はひたすら作曲を続けていた。(ピアノソナタ D 157はこの年の作品)
 シューベルトという人は生涯に渡って公式の職に就くことに恵まれない人だった。それは1816年(19歳)の時ライバッハ音楽学校教員に応募して落選した時から始まる。また、既にゲーテの詩に数多くのリートを作曲していたシューベルトの作品を、友人のシュパウンは文豪ゲーテに送る。しかし、これには全くなしのつぶてであった。ゲーテが楽譜を真剣に見たかどうかは疑わしいところで、現にシューベルトの死後、〈魔王〉の演奏を聴いて感動したと伝えられている。
 しかし幸いなことに、これらの出来事がシューベルトの創作活動を邪魔することはなかった。このことから、シューベルトが控えめで引っ込み思案であったと同時に、自分の創作に関して確固たる信念を持っていたこと、またある種の自信も持っていたことは充分に伺える。
 1817年(20歳)、兵役免除とともに教員として働く必要のなくなった彼は益々精力的に作曲活動を展開(ピアノソナタ D 537568 及び ヒュッテンブレンナー変奏曲はこの年の作品)し、翌18年、父の学校を辞職する。21歳に成長した彼を説得することは、父親の怒りをもってしても無駄なことだった。シューベルトは二度目の勘当を言い渡され、友人の家を転々とする放浪の生活が始まる。

ヒュッテンブレンナーの主題による13の変奏曲 イ短調 D576 (1817年8月作曲)

 ヒュッテンブレンナーはシューベルトの友人で、同じくサリエリの門下生であった。彼の弦楽四重奏曲作品3のテーマをもとに作曲されたもの。主題の動機はベートーヴェンの第7交響曲の緩徐楽章を模倣したものだとアインシュタインは指摘している。この変奏曲は形の美しい変奏に加えて巧みな和声の配列と繊細な和声進行の駆使によって見事な展開を見せる。

第1変奏
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イ短調。左手の動きはさすらう人の足取りを思わせる。
第2変奏
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イ短調。形の上では実に古典的な変奏だが、随所に隠れる減七の和音とオブリガートの複雑な音程がさすらい人の不安を駆り立てる。
第3変奏
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イ短調。焦燥感に満ちた音型が宙を舞う。
第4変奏
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イ短調。ようやく潤いのあるメロディーが出始め、希望が出てくる。
第5変奏
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イ長調。初めての長調の出現は一瞬幸せの夢を見せてくれる。
第6変奏
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嬰へ短調。哀しく美しいコラール。
第7変奏
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イ短調。三連符のスタッカートで動く左手が心の不穏を訴えるが、メロディーの美しさがそのまま残る。
第8変奏
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イ短調。透明感のある清らかな美を湛えた哀しい歌声。
第9変奏
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イ長調。母なる大地のふところに包まれたような暖かみを覚える。
第10変奏
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イ短調。突然自然の怒りに触れたかのごとく洪水が滝の如く押し寄せる。
第11変奏
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イ短調。すべてを失い、そこにあるのは天上への憧れのみ。
第12変奏
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イ短調。足取りも重く、よろめきながら去っていく。
第13変奏
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イ長調。Allegro 8分の3拍子。今までの世界と打って変わって軽やかな世界が広がる。まるで、幸せの“青い鳥”を見つけたかのように。

ベートーヴェン以来、変奏曲はただ単にテーマが変奏され、羅列されるのではなく、全体に亙って劇的な構築がなされるようになったが、この作品にも明らかにその要素が見受けられる。

ピアノ・ソナタ ホ長調 D157(断章)(1815年2月18日着手)

 シューベルト第一作のピアノソナタ。第三楽章までしか書かれていない。

第1楽章

 第1楽章 ホ長調は古典的なソナタ形式に則って作曲されている。これより4ヶ月前にあの完全なく糸を紡ぐグレートヒェン)を作曲した人物と同じ人の手による作品かと思うと、可哀相になるほど忠実にソナタ形式にこだわっているようなこの作品から、彼が伝統的なソナタ形式を学ぼうとしていた姿勢が伺える。この作品では明らかに第2テーマの方が重要なものと受け止められ、第1テーマは序奏的な性格を持っているが、この第1テーマのリズムはやがて、弦楽四重奏曲〈死と乙女〉、ピアノトリオ第1番の第1楽章のテーマにも発展していく。

第2楽章

 それに引き換え、第2楽章、ホ短調はシューベルトならではのピアノによるリートの楽章である。シューベルトの緩徐楽章 に多く見られる、テーマがその都度変奏されて現れるロンド形式は、既にこの作品で使われている。テーマの第1変奏は 抑制された弦のピッチカートの上をボーイソプラノの澄んだ美声が響き渡る。このような音は、少年合唱団にいたシューベ ルトがどのように音を聞いていたか解き明かしてくれるものとして興味深い。また、中間部に現れる連打の変奏は生涯に 互って彼が好んで使った方法である。

第3楽章

 第3楽章 メヌエット ロ長調もシューベルト独自の世界を充分表している。勢いのいい踊りで始まり劇的な展開をみせ る主部と、魅惑的なスタッカートの和音が弱音で続く中間部はとても対照的。中間部のこの音型はやがてソナタ D850のスケルツォの中間部にもまた現れる。

ピアノソナタ イ短調 D537 (1817年3月作曲)

 イ短調という調性はシューベルトにとって特別のものだったらしい。歌曲〈竪琴弾き〉の3曲、〈朱儒〉、「冬の旅」の中の〈辻音楽師〉等もイ短調で書かれているところからして、彼が人間の逃れられない運命、しかもそれを享受せざるをえない心の痛みを表す調性として感じていたことがわかる。

第1楽章

 和声的には三度近親和音への進行が随所に見られ、イ短調の第1テーマに対してヘ長調の第2テーマが現れる。第2テーマは第1のそれに比べて一見穏やかそうに見えるが、内声の旋律に隠された不協和音がデモーニッシュな力を振るう。これを見逃すと単なる子守唄になってしまいそうなこの第2テーマは実は深い意味を持っている。展開部は提示部に比べると若干の物足りなさを認めないわけにはいかないが、展開部の主要モチーフは、第1主題から派生してきており、先のホ長調、D157の展開部とはまるで違ってきている。再現部はニ短調で現れる。主調の4度上の調性である。これは既にモーツァルトにも見られたことで新しいわけではないが、第2テーマをイ長調で書いている辺り、シューベルト独自の和声の世界と言えるだろう。万華鏡のように移り変わる和声、それはあたかも道を探っている人間の心の葛藤と外界の変化を表しているように感じられる。

第2楽章

 第2楽章、ホ長調はD157の2楽章と同様に変奏されるテーマの現れるロンド形式(ABA'CA" コーダ)。「C」の部分が長く展開部のような性格を持つ。第1テーマは晩年の大作ソナタイ長調D959の終楽章のテーマにも使われており、彼にとって愛着のあるメロディーだったに違いない。3回現れるテーマには、それぞれに個性的な伴奏型があしらわれており、その魅力は筆舌に尽くしがたい。

第3楽章

 第3楽章、イ短調は、ABA'B'A"コーダの形で書かれているが、AとBの関係は第1テーマと第2テーマの関係にあり、その調性の関係が面白い。A(イ短調) - B(イ長調ーニ長調一ホ長調) - A'(ホ短調) -B'(ホ長調—ト長調ーイ長調) -A”(イ短調) -コーダ(へ長調―イ長調)「B」における第2テーマは2度、違う調性で出現する。短調における第2テーマの調性の設定は非常に微妙なもので、このように調性が落ち着くまでに他の調性を通ってくることはベートーヴェンにも見られたことである。しかし、此処における調性の自由さは、ベートーヴェンのように目的を持って動いているのと違って、確かな目的に向かって動くのではなく、気が付いたらそこに辿り着いていたような新鮮さを感じる。
 ここで、もう一つ見落としてはならないことがある。頻繁に現れる休符とフェルマータである。これはシューベルトが生涯に亙って使った大切な要素であり、既にD157のソナタにも、またこのソナタの1楽章にも突然休符によって途切れる瞬間が見られたが、その場合はいかにも場面転換の休符であった。しかし、この楽章に及んで、休符とフェルマータは第1テーマの主要要素として現れる。そして、この休符が第1テーマの性格を決定付けているが、それは自問自答する姿である。
 1817年作曲当時彼がどのような精神状態にあったかを考えるならば(上記、シューベルト~20歳頃までの足跡を参照)、この作品における性格はより理解できるであろう。

竪琴弾きⅠ~Ⅲ(ゲーテ) D478~480 (Ⅰ.1816年、Ⅱ.1822年、Ⅲ.1816年作曲)

 シューベルトは1815年18歳の時にゲーテの「ウィルヘルム・マイスターの修行時代」を読んだ。この三曲はその中に出てくる老竪琴弾きの歌である。第2巻13章にまず第2曲目のテキストが先に出てくる。ウィルヘルムがこの老人を住まいを訪ね、階段を登っていると、甘美な竪琴の音が聞こえてくる。それは心を震わす嘆くような響きで、悲しみに満ちた不安げな歌を伴奏している。ウィルヘルムはそーっとドアに忍び寄って耳を澄ます。“涙と共にパンを食べたことのない者は…” その哀愁を帯びた心からの嘆きはウィルヘルムの心奥底まで響いた。
 涙を押さえることのできなかったウィルヘルムだが戸をあけると、そこは貧しいベッドが一つあるだけのみすぼらしい部屋。老人は涙をぬぐってから親しみのこもった微笑を浮かべながら“どうしてここへ来た?”と聞く。“ここの方が落ち着けるからね”と答えるウィルヘルム。彼が“孤独”について歌ってくれるよう頼むと、老人はまた竪琴を手に歌いだす。“孤独に身を委ねる者は…” (第1曲目) 第3曲目は第5巻14章に出てくるが、ウィルヘルムが夜、庭のあずまやから聞こえてくる翁の歌声に引き寄せられていった 時、聞いた歌である。“戸口にそっと忍び寄って行き…”

あこがれ(シラー) D636 (1819年頃作曲)

 これと同じテキストにシューベルトは1813年既に一度作曲をしている。この第二作では前半が完全に書き換えられているが、最後の高揚した部分はそのまま残された。このシラーの絵画的で、場面や色彩が次々と変化する詩に作曲にするにあたって、シューベルトがいろいろと苦労した様子が伺える。シラーの詩は、一連ずつ雰囲気、状況が変わっており、これを表現するために彼は独特な和声を展開する。言葉に対し、情景に対し、感情に対しふさわしい音の言葉を見つけていったシューベルト。16歳にして挑戦したこのテキストに、彼は6年を経て、より適切な音の言葉を見出した。

馭者クロノスに(ゲーテ) D369 (1816年作曲)

 25歳のゲーテが詩人クロップシュトックを見送った帰りに着手したというこの詩は、出版にあたって手稿にかなり手を加 えられた名作。クロノスはもともと巨人族の末弟で、ゼウスの父であったがゲーテはここで、時の神“クロノス”と同一視し ている。
 そのクロノスを馭者に見立て、馬車を人生に例えて書かれたこの詩は、“ シュトルム・ウント・ドラング(疾風怒濤)”の代表的な作品で、ゲーテが若い時分から人生に何を望んでいたか窺い知ることができる。
 “人生全てを駆け抜ける旅”という膨大なテーマの詩であるが、シューベルトはテキストの各々の箇所にふさわしい音型でピアノパートを作曲し、音のパレットから適切な色を選び出し、このゲーテの詩を生きたものにすることに成功した。

タルタロスからの群集(シラー) D583 (1817年9月作曲)

 タルタロスはギリシャの神々が幽閉されていた場所である。シラーのこの詩には自由を奪われた神々の喘ぎ苦しむさまが、おぞましいばかりに描かれており、絵画的な自然の描写と相まって聴き手に戦慄を呼び起こす。 この深遠なシラーの詩を20歳の青年がリートのテキストに選んだという事実は、シューベルトがこの若さでいかに深い精神をもっていたかを物語っている。更に彼がこの詩をどのように解釈していたか作品から知るとき、その驚異的な深い洞察力に驚かざるを得ない。シューベルトが当時の歌曲作曲の慣習よりも自分の感性に忠実であったことを示す傑作である。

アンゼルモの墓に (クラウディウス) D504 (1816年11月4日作曲)

 哀愁を湛えたこの愛すべき小品はシューベルトの魅惑的な作品の一つ。言葉のもつ抑揚が実に自然に美しく浮き彫りにされており、墓に向かって切々と訴える悲しみを聴く。調性にこだわったシューベルトならではの変ホ短調(原調)の選択が、アンゼルモを失った悲しみを描写するのに一役買っている。

さすらい人(シュミット) D489(493)(第一作1816年10月作曲、第三作1821年5月)

 シューベルトの代表的な歌曲の一つ。趣味で詩を作っていたドイツ、リューベックの医者シュミットによるテキスト。彼は初めこの詩を「不幸な男」と題していたが、「異国の男」に変更。それを機にシューベルトは第二稿でこの歌曲を「さすらい人」と名づけた。自分自身“さすらい人”の身にあったシューベルトは、当然このテーマの詩に一方ならぬ興味を持っていたことであろう。作品からシューベルトが“さすらい人”をどのような人間と捉えていたかが伺える。

魔王(ゲーテ) D328 (1815年10月?作曲)

 驚くべき傑作である。知らなければ、これが19世紀初めの18歳の青年の作品だと一体誰が思うであろうか。この詩はもともとゲーテのジングシュピール「漁夫の娘」の中で、夜、静けさの中で漁夫の娘が仕事をしながら口ずさむ、昔から言い伝えられている歌として登場するものだが、時代を先取りしたシューベルトの鋭い感性は、この詩を自分自身に取り込み、悲劇性を強調した劇的な世界を音楽で繰り広げることに成功。このシューベルトの作品のおかげでゲーテの詩は不滅のものとなった。