プログラムノート

原田英代ピアノ・リサイタル第3回<変容>

2019年3月8日(金)
HakujuHall(ハクジュホール)

フランツ・シューベルト (1797-1828)
「4つの即興曲」D.899より 第1番 ハ短調 (1827)

 メロディを書くことに秀でていたシューベルトだが、ピアノ・ソナタの作曲には手こずった。ソナタ形式では主題を構成する小さなモティーフを展開、発展させなければならないため、長いメロディはソナタに不向きだったからである。しかし、彼は生涯にわたってソナタを書き続ける。べートーヴェンの最盛期に同じウィーンで生を受けたシューベルトには、ソナタ形式によって何かを生成することの天才であったベートーヴェンの作品の偉大さが眩しく、重荷となってのしかかっていたのであろう。
 シューベルトは、しかし、晩年に書いたこの即興曲で、一つのモティーフを基に全体を構成する作品を完成させる。これはソナタ形式をとらないが、一つのモティーフが主要な二つのテーマの基となっており、それがあたかも人生行路を描くかのごとく展開されていく。そこには意図的な生成はなく、人間が一歩一歩辿って行くような純粋な過程があらわれている。
 曲は運命の時を告げるかのごとく打ち鳴らされるオクターヴで始まり、それに無伴奏の孤独なメロディが続く。この生命の種子のような裸の旋律はさまざまな和声と伴奏型を伴って展開していき、一度は第三のメロディが表す天上的な安らぎに包まれるが、それから波乱万丈の人生が始まる。ここには歌曲『魔王』や『小人』―愛する王妃と心中する小人の愛と憎悪と悲哀に満ちた歌曲―を思わせる同音連打や、神に背いた者が落される冥界の“タルタロス”でうごめく人々の苦悶を謳った歌曲『タルタロスの群衆』に見られる音型などが現れ、その過程が容易でないことを示す。背筋の寒くなるようなこうした恐怖感を覚えながらも、果敢に闘う孤独なモティーフは、最後に清らかなハ長調に辿り着く。それはあたかも魂が死とともに浄化され、救われたかのようである。

ロベルト・シューマン (1810-1856)
クライスレリアーナ op.16 (1838)

 8曲の幻想曲からなる『クライスレリアーナ』は、E.T.A.ホフマンの描いた楽長ヨハネス・クライスラーの音楽言行録『クライスレリアーナ』から霊感を受けて1838年、シューマンが28歳のときに作曲された。とは言え、この作品はシューマン自身の精神のポートレートにほかならない。彼はのちの妻クララに書き送った。「題はクライスレリアーナとするつもりだけれど、あなたへの思いが主体となっています。」
 1837年、シューマンとクララは密かに婚約していた。というのも、クララの父であり、シューマンのピアノの恩師であったヴィークから結婚の許しをもらえなかったからである。この時期シューマンの苦悩はピークに達していた。師のとった態度は、この事件が単なる恋愛問題ではなく、彼の音楽家としての真意を問う重大な問題であることを示しており、彼は自分がクララにふさわしくないということの意味を真剣に問わねばならなかった。偏屈で粗野、それでいて聡明なクライスラーの音楽に対する真摯な態度に、そしてまたクライスラーの実らない恋に悶々とする姿に、シューマンが自分を重ね合わせていたことは充分考えられるであろう。
 8曲は「急―緩」の繰り返しで構成されており、各曲は関係がないように思えるが、共通のテーマが潜んでいる。ホフマンの小説『クライスレリアーナ』に出てくる「第30変奏曲のテーマ」と呼ばれるものである。すなわちバッハの『ゴールドベルク変奏曲』の第30番のことで、シューマンは冒頭の「レソラシド」というモティーフを『クライスレリアーナ』の至る所にちりばめた。第1番ではバスにこのモティーフが堂々と現れるが、第2番以降は逆行にもなったり、他の音と混ぜられたりするため、一見わからない。かくして、このモティーフはそれぞれの曲の雰囲気や性格に溶け込んで、全曲を通じて変容を遂げていくこととなる。
 いきなり前ぶれなく情熱の迸り出る第1番に、平穏な第2番が続く。ここではのどかな静けさの中で物思いに耽るが、天真爛漫な妖精に邪魔されたり不安の種が顔を出したりと必ずしも穏やかではない。第3番は第1番以上に劇的に展開される。中間部で愛に酔いしれるが、最後はまるで自分を見失ったかのような激情である。第4番では安らぎと不安な官能性が交叉し、第5番では引き裂かれた心が途切れ途切れのモティーフで不安げに現れ、中間部で嘆きの声を上げる。第6番は聖なる調べに恍惚とするかのように始まる。突然メロディに『聖しこの夜』の一節がピアニッシモで現れる。この部分のオリジナルの歌詞は「ただ愛しあう…」というもので、まさにシューマンの嘘偽りのない独白だ。しかし突然昂奮した5連符が続く。これは恐ろしいまでの緊張感に満ちたクララのテーマである。(クララの名前Claraは5つのアルファベットからなるため、シューマンは5連符、ないし五つの音によるメロディを使ってクララを表した。)が、その独白はやがて別れの踊りに変身する。静かな深い悲しみを秘めた別れに心は痛む。第7番では、悪魔を表す減七の和音が畳みかけるように現れ、狂気の嵐が舞う。まるで「死の踊り」さながらである。変ロ長調と変ホ長調のコラールのコーダが、愛に満ちた天上の響きでなぐさめてくれる。最後の第8番ではあたかも死への道を辿るかのような不気味な足どりが、声を潜めて響きわたる。ニ短調の劇的な第2中間部が全身の力を振り絞って運命に立ち向かう。しかし、その甲斐もなく、すべては消え失せる。
 この終わり方は、あたかもロベルトとクララの将来を暗示するかのようである。二人は1840年に晴れて結婚できたものの、幸せな家庭生活を送ることはなかった。あれだけ恋に燃え、苦悩に耐えた日々の代償として二人が直面しなければならなかった不幸の日々を、なんと形容すればよいのだろうか。お互いの理想とする音楽観のずれに気づいたロベルトの苦しみ、そしてそれに気づかず焦燥感を募らせたクララ。二人はついぞ接点を見出すことができず、精神を病んだロベルトの死という恐ろしい結末を迎えることとなる。

セルゲイ・ラフマニノフ (1873-1943)

 世紀末を生きたロシアの作曲家たちの音楽は、それぞれの個性とともに、ある種の類似する情緒的な響きを湛えていた。彼らの作品が不安、苦悩、抗議、昂ぶったパトスなどを感じさせるのは、不穏な時代感覚を反映しているためであろう。変遷を遂げつつあった社会の動きに敏感な人々の不安な予感が音楽に反映されていたと思われる。
 そのような中にあっても、ラフマニノフは伝統的なロシア音楽に身を捧げることを躊躇しなかった。チャイコフスキー亡きあと、ラフマニノフの態度がどれだけ誹謗の対象となり数多の批判を受けようとも、音楽とはあくまでも、聴く人々の心を清め、精神を高揚させ、高潔さや勇気を与えるべきものであるという信条を忘れなかった。ラフマニノフにとって、音楽は単なる無意味な色彩とリズムの遊戯ではなく、常に深い感情を呼び覚ますものでなければならなかったのである。

「10の前奏曲」op.23より 第10番 変ト長調 (1901-1903)

 ラフマニノフは幼少の頃、ノヴゴロドの教会を訪れるのが好きだった。信仰心からというより、鐘の音が彼を魅了したのであった。しかし故郷を離れた彼は、やがて朝は教会に行き、夜はジプシーの居酒屋に足を運ぶ生活に耽溺するようになる。
 合唱の伴奏に乗ってテノールが歌い出すこの作品は、典型的なロシアの合唱の形態で書かれたプレリュードである。ロシア正教では独唱を伴う合唱による聖歌が多く、楽器の演奏が許されなかったロシア正教会でのこうした合唱形態はロシア特有の独特の響きを生みだした。

「10の前奏曲」op.23より 第7番 ハ短調 (1901-1903)

 このプレリュードには、「鐘」の名称で知られるop.3-2のモティーフの対話と共通するメロディが潜んでいる。「鐘」はあたかも過酷な運命とそれに哀願する人間の対話で主要テーマが構成されているが、op.23-7のプレリュードにも共通するテーマがある。さらにここには吹き荒れる16音符の動きが加わっており、私はこの作品を聞くと、プーシキンの小説『ベールギン物語』の第2話、『吹雪』を思い浮かべる。親から結婚を反対された若いカップルが教会で密かに結婚式を挙げようと企てたものの、猛吹雪のため予定が狂い、女性は見知らぬ男性と結婚する羽目になるという話である。自然の悪戯に遭い、運命に翻弄されるが、その運命を受け入れる人々の姿を、このプレリュードは思わせる。

「12の歌」op.21より 第5曲 変イ長調 “リラの花” (1902作曲、1913編曲)

 ラフマニノフはナターリヤと結婚した1902年4月、12曲からなる歌曲集を書き上げた。その中から第5番の『リラの花』を1913年にピアノ用に編曲している。ラフマニノフは、春になると芳香を放つリラの花を心から愛した。風に身を任せ、大きな房を揺さぶられながら、ほんの数日咲き乱れる香しい花のもとで、幸せを見つける喜びを歌った曲。

「楽興の時」op.16より 第4番 ホ短調 (1897)

 1896年末に作曲された6曲からなる『楽興の時』は、23歳のラフマニノフがすでに独創性を確立しつつあったことを物語っている。全6曲を飾るのは、波型の音型だが、第4番では1オクターヴ以上の幅まで広がる。第3番までにはなかった10度の上向音型が、彼の精神状態の変化を表している。また、右手に終始現れる二重唱のメロディが悲壮感を帯びながらも力強く歌い上げる。

セルゲイ・プロコフイエフ (1891-1953)

 ウクライナのソンツォフカで生まれたプロコフィエフは、9歳でオペラを作曲した神童であった。10歳にしてモスクワでタネーエフに会うチャンスに恵まれ、この巨匠の紹介で、当時音楽院を卒業したばかりの作曲家グリエールが、夏の時分ウクライナのプロコフィエフ家まで出向いてセルゲイ少年を教えるという夢のような恩恵に与る。13歳でサンクト・ペテルブルク音楽院に入学、試験官であったリムスキー=コルサコフは天才的なセルゲイ少年の登場に歓喜の声を上げた。しかし、音楽院での授業は彼にとって退屈に思われ、とくにリャードフの和声の授業には我慢がならなかった。プロコフィエフの音楽は、強烈なリズムと共に骨太の線がどこまでも続く動態性の強さを特徴としており、彼は従来の型に嵌められることを好まなかった。かくしてペテルブルクの古き音楽芸術は、彼の出現を契機に現代へと前進していくこととなる。
 しかし、プロコフィエフは19世紀の正統な音楽教育を受けており、その音楽理念で育まれたゆえに、自ずとロシア的な叙情性も充分秘めていた。プロコフィエフの叙情性が理解されていないことを、わが恩師メルジャーノフ氏は大変嘆いていた。ある逸話が残っている。リヒテルがリサイタルの後半をラフマニノフの小品で構成していた時のことだ。プロコフィエフがリヒテルに、「どうしてそんな“ウサギの糞”のような作品を弾くのだ!」と言った。しかし、プロコフィエフがラフマニノフの影響を充分に受けていることを知っていたリヒテルは、苦笑しただけだった。

 

バレエ「ロミオとジュリエット」より op.64 (1935)、op.75 (1937)

 当初、プロコフィエフはこのバレエにハッピーエンドの結末を置いた。仮死状態のジュリエットや死んだあとのロミオが踊るシチュエーションは不可能と考えたからである。しかし、結局はシェイクスピアの原作どおりに書き直した。それはシェイクスピアに敬意を表しての改作ではなく、人から「あなたの音楽は結末で本当の喜びをまったく表現していない」と言われたためであった。
 のちにこのバレエ曲から交響的組曲も編まれた。さらにレヴォン・アトヴミヤンが全曲をピアノ用に編曲したものからプロコフィエフは10曲を選び、若干手を加えてピアノ独奏用の組曲として編成した。今回はプログラムのテーマ『変容』にふさわしく、アトヴミヤンが編曲したものの、10曲の組曲に入っていない「ジュリエットの葬儀」と「ジュリエットの死」もあわせて演奏する。
 人間が変容を遂げるには、それまでの状態に別れを告げる必要があり、そこには何らかの形で“死”が発生する。ロミオとジュリエットの場合、愛する二人が救われる道は“死”以外になかった。この最後のクライマックスのシーンは、プロコフィエフの手にかかって見事に音でドラマ化されている。

ドミートリー・ショスタコーヴィチ (1906-1975)

 1906年、ショスタコーヴィチはサンクト・ペテルブルクで生まれた。第一次ロシア革命の起こった翌年のことである。第一次世界大戦の終結を見ない1917年2月、ロシアには二月革命が起こる。そのころ、11歳の少年ショスタコーヴィチは、路上で彼と同世代の少年がコサックに切り殺されるのを見る。この恐ろしい光景は、生涯彼の頭から離れなかった。
 ショスタコーヴィチはベートーヴェンやマーラーの交響曲の伝統だけではなく、同時にムソルグスキーに始まったロシア音楽の伝統も受け継いでいる。「純粋な、偉大な、飾り気のない、金箔などまぶしていない」民衆を音楽で表すことに全生涯を捧げたムソルグスキーは、音楽理論に従順であるよりも人民の言葉をそのまま音楽に移し替えようとした。そうした民衆の生きた歌謡性を音楽に反映させることを、ショスタコーヴィチはムソルグスキーから受け継いでいる。
 1950年、ショスタコーヴィチはバッハ生誕200年を記念して行われたライプツィヒの祝典に招聘され、その一環として開催された国際バッハコンクールで審査員を務めた。ちなみにこのときの優勝者はタチヤーナ・ニコラーエワであった。ショスタコーヴィチはコンクール開催中に聴き続けた平均律クラヴィーア曲集に魅せられ、1951年、24曲のプレリュードとフーガを完成させた。

「24の前奏曲とフーガ」op.87より 第24番 ニ短調 (1950/1951)

 第24番にはマーラーの交響曲第1番とムソルグスキーのオペラ『ボリス・ゴドゥノフ』の影響が窺える。プレリュードの中ほどにはすでにフーガのテーマが現れるが、この4度音程のテーマは『ボリス・ゴドゥノフ』で使われるロシア民謡「栄光あれ」の冒頭と似通っている。また、マーラーの交響曲第1番のさまざまなテーマの影響も見過ごせない。さらにフーガのテーマには、第4小節目の「レ」の音からかけられた一見不自然なスラーに「怒りの日」のテーマが潜んでいることを思わせ、これらの相互作用で、このテーマから苦悩の中にある人民の嘆きの歌が聞こえてくる。
 また、フーガの途中から始まる二つの8分音符にかけられたスラーによるアーティキュレーションは、『ボリス・ゴドゥノフ』の民衆の訴える声を思わせる。2分音符と4分音符の組合せで表される「タータ」というリズムは「ユロージヴイ(ロシア独自の聖なる愚者)」の嘆きなのであろうか。このように、フーガは『ボリス・ゴドゥノフ』における人民の嘆きとマーラーの雄大さが混ざり合った大曲となっていると言えよう。
 本作品にはショスタコーヴィチによる自作自演の録音が残っており、興味深いことがある。プレリュードに教会旋法ミクソリディア旋法が使われているが、この美しい部分を、ショスタコーヴィチはまるで地獄の底に佇んだまま天上から差してくる光を見つめているかのごとく演奏している。まるで救いは所詮手の届かないものとでも言うように…フーガの最後は恐ろしいまでのクライマックスを見せる。これは第5交響曲の終楽章と同じく、強制的に喜ばされている人民の姿なのかもしれない。