プログラムノート

原田英代ピアノ・リサイタル第2回<葛藤>

2018年3月2日(金)
HakujuHall(ハクジュホール)

ベートーヴェン:ソナタ「悲愴」op.13

 音楽家にとって致命的な難聴が始まったベートーヴェンは、この作品で創造主に対して闘いを挑む。音を拒否された彼が、音楽によって自分の運命を見極め、自らの音楽芸術を飛躍させていく。彼は手紙の中で「運命の喉っ首をつかまえてやる!くたばってなんかしまうものか!」と書いているが、その強靭な精神が音で表されたのがこの作品である。その様相をベートーヴェン研究家の小松雄一郎氏は、「まるで灰の中から不死鳥があらわれるように死を生に転じていった」と称した。
 第2楽章を聴くと、苦悩のどん底から這い上がり、人類に愛を与えるベートーヴェンの不屈な力に驚愕する。この音楽の聖なる力は、到底言葉では言い尽くせない。第二次世界大戦中、アウシュヴィッツ強制収容所でこの楽章が囚人によるオーケストラで演奏されていたが、このときチェロを弾いていた女性が生還後語った言葉に戦慄を覚える。
 「私は初めて『悲愴』の第2楽章を演奏した夜を決して忘れない。この演奏で私たちは自身を、生き地獄から、強制収容所で行われている人間への屈辱など到底手の届かない高みへと持ち上げたのである。」

シューマン:交響的練習曲 op.13

 シューマンは、もともとこの作品を『悲愴変奏曲』と名付けるつもりであったが、その後『ファンタジーとフィナーレ』に変わり、最終的に『交響的練習曲』と命名された。この経緯からもわかるように、これはファンタジーあふれる自由な性格変奏である。
 フォン・フリッケン男爵が作曲したテーマをもとに書かれた作品であるが、男爵の娘エルネスティーネとシューマンは密かに婚約していた。しかし、ことは思いもかけない展開を見る。“自分は彼女にふさわしくないのではないか”と悩んでいたシューマンのもとに、男爵の許可が下りた知らせが届くのだが、シューマンは何故か迷っていた。そして、彼女が私生児であることを知るに及び、この婚約は解消されたのである。しかし、エルネスティーネは生涯彼の良い友であった。
 この作品は、悲劇的な性格の主題を基にして、シューマンならではの幻想性が怒濤のごとく展開される。時には傷口に自ら塩を塗るような過激な激情も見られ、それは怖くなるほどだ。しかし、フィナーレで一転する。マルシュナーのオペラ『聖霊騎士とユダヤ女』のロマンツェによるテーマで書かれているが、この左手の音型はフリッケン男爵のテーマを長調にしたもの。それまでの悲劇は突然歓喜へと姿を変える。シューマンは後に妻となるクララへの手紙で、「夕空のピンク色に染まった雲」とか、「夏の朝、黄金に輝く陽の光」といったものをこの曲に盛り込んだと書いているが、これはたぶんフィナーレの一部を表した言葉と思われる。
 ところで「交響的性格による練習曲」と名付けたのはなぜか。モスクワ音楽院の故ナザイキンスキー教授は「シューマンが交響曲に託した内容は、実際のオーケストラに無い音だった。それはピアノでしか表現できないものなのだ」と語った。ここでアントン・ルビンシュテインの言葉を思い出す。「ピアノはひとつの楽器だとお考えですね。だが、ピアノは百台ぶんの楽器なのです。」シューマンにとって、ピアノは最も自分の描きたい世界を実現してくれる楽器であり、「交響的」は彼が本来オーケストラに望んでいた音を指していると言えるのかもしれない。

メトネルとラフマニノフ

 19世紀末から20世紀初頭にかけて最も著名で偉大な作曲家と言えば、スクリャービン、ラフマニノフ、メトネルの3人であろう。このうちラフマニノフとメトネルは、前衛的芸術に移行しつつあったロシアにあって、頑として19世紀のスタイルを捨てることはなかった。そのため、彼らは苦労を重ねることとなる。お互い尊敬しあう仲で、生涯友情が続いた。

メトネル:『回想』ソナタ op.38-1

 メトネルは、後にも先にも例を見ない作曲家だ。彼の作品にはスラヴとドイツの精神が対等に共存しているのだ。19世紀のロシアは、さまざまな分野でスラヴ派か西欧派かで対立した。西欧派と言われるチャイコフスキーは、ロシア音楽にドイツの音楽理論を融合させ、ロシア音楽の基礎を築いた。しかし、メトネルの作品からは、ロシアの風景や人々の様子とドイツの精神やドイツ的な捉え方の両方が、融合することなく浮かび上がってくる。
 メトネルは1879年モスクワ生まれ、両親ともドイツ人の血を引く。彼はバッハ、ベートーヴェン、シューマンを愛し、ゲーテ、ハイネを好み、ドイツ哲学にも魅かれたが、自分はあくまでもロシア人だと主張し、ドイツ人呼ばわりされることを嫌った。その彼はラフマニノフ同様、メロディーの乏しい前衛的芸術を受けつけなかった。彼が調性やメロディーにいかに魂を込めたかは、知る人ぞ知る彼の特徴であった。にもかかわらず、恩師タネーエフから「ソナタ形式と共に生まれた」ようだと言われるほど緻密なソナタ形式の作品を書くことのできた彼は、「無味乾燥」と評され、感情と精神が欠如していると指摘された。ここには、いささか民族の差別問題が見え隠れするのを否定できないのではないか……
 『回想』ソナタの深い思考の展開はドイツ的だが、その母胎空間はロシアである。ロシア革命の勃発で、親友ラフマニノフもロシアを去ってしまったあと、孤独と恐怖に苛まれる日々にこの曲は生まれた。終始ロシア特有のメランコリックな雰囲気が続き、痛々しい思いが綴られる。

ラフマニノフ:
幻想小曲集op.3 より、No.1 エレジー、No.3 メロディー、No.4 道化師
練習曲『音の絵』op.33より No.8、No.9
プレリュード op.23より No.6、No.5

 1892年、ラフマニノフはモスクワ音楽院の卒業作品として、オペラ『アレコ』を作曲し、金メダルを受賞して卒業した。妻の不倫に悩んだ末、妻とその愛人を殺してしまうプーシキンのこの小説を、18歳の青年が見事に音で表現した。愛、嫉妬、怨み、懇願など人間が無意識に抱く感情をこれほどまでに表現することに成功した彼は、同年末ピアノのために書かれた『幻想小曲集』でも、複雑に絡まる人間の感情をドラマティックに謳いあげる。そこにはすでにラフマニノフの個性が生きており、スラヴの感覚が迸る。『エレジー』では自分を傷つけながら燃え上がる感情が激しく交差し、『メロディー』では愛の予感に震え、『道化師』にはおどける人間の裏に巣食う悲しみが見える。
 1897年、ラフマニノフにとって生涯忘れられない事件が起こる。交響曲第一番初演の大失敗である。作曲家ラフマニノフが否定されるという過酷な審判が下ったのだ。彼はその後3年間作曲家として沈黙の日々を送る。催眠療法士ダーリの治療を受けて彼が甦るのは1900年のこと。翌年ピアノ協奏曲第2番を完成させ、ようやく作曲家としての気力を見出す。その後数々の名作が生まれるのに先駆けて書かれたピアノのソロの作品に、1901年に作曲されたプレリュードop.23-5がある。これは死刑台への行進である。
 1905年1月、ペテルブルグで「血の日曜日事件」が起こる。神と皇帝を信じる人民が困窮を訴え、パンを要求すべく立ち上がったこの行進は、ニコライ二世の耳に届くことなく数千人の人民が殺害された。こうして人民の皇帝信頼は失われ、革命の機運は労働階級に広まっていく。その波を受け、政治に関心の薄いラフマニノフも、タネーエフやシャリアピンらと共に、良心、言論、芸術の自由を求める文を新聞に発表する。彼らは、ロシアの芸術の将来に暗い影が襲うことを恐れていた。人間の理性や感性の偉大さに対する信頼が消え失せようとしていることへの危惧だった。しかし、19世紀ロシアの深い情緒を湛えた芸術は、残酷な日々に動揺する人民にとって、もはや場違いなものとなっていった。こうしてロシアにデカダンス的潮流が押し寄せる。
 1911年、練習曲『音の絵』op.33が作曲される。絵具としての音の響きを通じて、ラフマニノフは複雑な感情や変貌していく精神状態を、ますます顕著に表出するようになる。しかしそこでも、ロシアの特性である、うねるメロディー線が繰り広げるメランコリーと情熱的な世界が失われることはない。シャリアピンは「ロシア的とは何か」と訊かれたとき、「ラフマニノフの音楽をお聴きなさい。それ以上にロシア的なものはない」と言ったが、生涯ラフマニノフはロシアの大地から育んだものを手放そうとはしなかったのである。