プログラムノート

原田英代ピアノ・リサイタル第1回<さすらい>

2017年3月3日(金)
HakujuHall(ハクジュホール)

バッハ(ブゾーニ編曲):シャコンヌ

 1720年7月、2か月にわたるカールスバードへの旅行からケーテンに戻ってきたバッハを待ち受けていたのは、13年寄り添った妻マリア・バルバラの死であった。彼女との間に7人の子供を授かり、人生の苦しみも喜びも分かち合ってきた愛する妻は、すでに埋葬されたあとであった。
 シャコンヌは、バッハの無伴奏ヴァイオリンのためのパルティータ第2番BWV. 1004の最終楽章であるが、この作品が書かれたのはこのバッハの悲しみの時期と重なる。パルティ―タにおける1曲としては15分もかかる作品を組み込むことは異例のことであり、ここにバッハが示した宗教観、人生観は計り知れない。調和のとれた協調的な世界の実現を願い、神の公平な審判を受け入れることを美としたバッハを襲ったこの苦悩がいかなるものであったか、作品から窺い知ることができる。
 シャコンヌは、もともと南米に存在したチャコーナという舞曲に由来し、17世紀にヨーロッパに上陸したと考えられている。4小節ないし、8小節の短いバス声部を反復しながらその上部で切れ目なく延々と変奏が続くこの形式は、バッハのやりどころのない心を表すのにふさわしい形式と言えよう。
 曲は3つの部分から成り、ニ短調-ニ長調-ニ短調が基調となっている。厳粛、荘重でありながら心が引き裂かれるような苦悩を表すニ短調に、神の栄光を表すニ長調が組み込まれ、単なる同主調以上の意味を表す。また、この作品中には半音階の4度下降である「パッスス・ドゥリウスクルス」が見られるが、これは苦悩、絶望、痛み、悲しみを表す特別な意味を持つ音型である。

シューベルト:「さすらい人」幻想曲 D760

 1822年(25歳)の作。ソナタを模範とした4楽章で構成されているが、どの楽章にもソナタ形式はなく、楽章が切れ目なく続く幻想曲である。
 20歳の頃から書かれた多くのピアノソナタは一曲を除いては悉く未完に終わっており、ソナタ形式で作品を書くことに苦労したシューベルトが窺える。メロディー作曲家である彼にとって、モティーフを展開させていくソナタ形式はしばしばコルセットとなっていたのだ。しかし、この幻想曲には「タータタ」というダクチュルスのリズムをもつテーマが全楽章に施され、あたかも4つの楽章が一つのソナタを形成しているかのようである。
 「さすらい人」幻想曲の名は第2楽章に由来する。シューベルト自身が文字通り“さすらい”の人生を送った人であり、彼にとって“さすらい”は生涯のテーマであった。この幻想曲全曲を性格付けているのは、“さすらい人”の遍歴そのものである。

第1楽章

 未知との遭遇を喜び、輝かしい将来を夢見る、希望に満ちた若者の旅立ちを思わせる。全曲を通じて現れるが、新鮮で明るい希望に満ち溢れている。

第2楽章

 19歳の時作曲した歌曲「さすらい人」のメロディーを主題にして書かれた変奏曲。その歌詞がこの楽章全体の性格を示している。

ここでは太陽も私には冷たく感じられる、
花は萎れ、人生にも疲れ果てた、
人々の語る言葉は虚しく響き、
私は何処へ行ってもよそ者だ。

第3楽章

 ウィンナー・ワルツ。シューベルトは生涯友人に囲まれて過ごしたが、彼らは集まるとシューベルトの演奏するワルツやメヌエットに合わせて踊ったものだった。
 時を忘れて踊る人々。最高の“遊び”のひととき。中間部は完全に夢の中。夢から覚めると、世の中は乱舞の渦であることに気づく。

第4楽章

 第4楽章は、フガートで始まる。さすらい人遍歴の最後にフーガ風な理性的な形を置いたのは非常に興味深い。感情の起伏の激しい人生に翻弄された後、救いの光を投げかけてくれるのは理性なのか。最後は人生を讃歌して幕を閉じる。

リスト:“オーベルマンの谷” 『巡礼の年 第一年 スイス編』より

 『巡礼の年第1年』はリストが1835~36年、マリー・ダグー伯爵夫人とスイスを旅したときの印象をもとに書かれた作品集である。「オーベルマン」はセナンクールの書いた小説の主人公の名前で、人生に躓いたオーベルマンがスイスの自然のなかで生きる場所を見出していく過程を描いた小説であるが、リストはこの主人公に自分と同じ境遇を見出しして夢中になったことであろう。
 幼少期から父親の欲望の元、ピアノ一筋で生きてきたリストは、12歳でパリに移住し、演奏活動に明け暮れ、16歳でピアノに嫌気がさしてきてしまった。そして宗教に関心を持ち始めるのだが、その矢先に父親が倒れパリで孤りとなる。この若さで、彼は一人で生計を立てて生きていくことを余儀なくされる。またこの期に及んで教養が足りないことを自覚し、パガニーニを聴き、ショパンと知己を得るに至って音楽家として不足の部分も認識した。23歳のとき、彼はマリー・ダグー伯爵夫人と知り合い、忽ち恋愛関係に陥る。この激しい恋は留まるところを知らず翌年駆け落ちを断行、スイスに逃亡する。最初の2年間は二人にとってこの上ない幸福の日々であった。マリーはリストの才能を見抜き、彼に勉強に専念することを促した。博識のマリーからもリストは学ぶことが多かった。またマリーの作家としての才能を認めたリストは、彼女に執筆するように勧めた。こうして人里離れたスイスの自然のなかで、誰からも詮索されずに二人は実り多き幸せの日々を送った。しかし、これは彼らの行く末に待っている不幸を見て見ぬふりをしているにすぎなかった。セナンクールの小説にも、叶わぬ恋の話が出てくるのを、リストはどのような思いで読んだのであろうか…
 ひとが苦労して作り上げた秩序に従ってのみ物ごとを捉えるならば、先入観や不安感の虜になってしまい、なかなか確固たる道をみつけることはできない。そうしてがんじがらめになったとき、はっきりと内なる声が聞こえる。“自分とは誰なのか?自分は何を欲しているのか”。この問いから人生のさすらいが始まる。オーベルマンはその答えを自然に問うて旅をする。この主人公の生き方に自分を投影したリストから、この「オーベルマンの谷」は生まれることとなった。
 全曲は5つのパートから成り立ているが、全てを通じて同じテーマが現れる。その度に性格を異にしているテーマが、主人公の考え、状況を伝えている。この手法はバッハのシャコンヌやシューベルトのさすらい人幻想曲と共通するものである。

ラフマニノフ:コレルリの主題による変奏曲 作品42

 1917年ロシア革命の勃発を受けて愛する祖国ロシアを去ることを余儀なくされたラフマニノフは、もっぱら演奏活動で生計を立てねばならなかった。アメリカに渡り、夏はヨーロッパで過ごしたが、祖国を失った彼は、自分自身も喪失してしまった。ロシアの自然なしに、彼には作曲は到底できないと思われた。亡命後、編曲は絶えず書かれたが、オリジナルの作品は5曲のみであった。この変奏曲がピアノのソロのために書かれた唯一の作品である。
 コレルリの主題とあるが、これは本来イベリア半島の民族舞曲「ラ・フォリア」(“狂気”の意)のテーマで、ラフマニノフはタイトルを変更することを希望していたという。このテーマはサラバンド様式だが、サラバンドという踊りはもともと死の舞踏である。“死神が柱の影に隠れて、今にも斧を振りかざそうと待ち構えているテーマである”と音楽理論家の故ナザイキンスキー教授は語っていた。この美しいテーマに潜む恐ろしい力を思うとき、この美しさが孕んでいる凍りつくような冷ややかさも浮かび上がってくるのである。
 ラフマニノフは、常に死を恐れていた。幼少時、両親の破局で家族が崩壊したときから、別れの怖さを知っていた。国家の体制の変革から、愛する母国への帰還を許されず、自分を追放者と感じていた彼は、家族はいるものの芸術家として根無し草を味わった。流浪の人生の始まりだった。鬱屈した心情と苦しみに喘ぐ悲痛な叫びがこの変奏曲から聞こえてくる。彼を襲った運命の重圧の痕跡は最後まで癒されることはない。コーダは耐えられないほど痛々しい。